見えない手のひら
- Napple
- 3月13日
- 読了時間: 4分
2025/3/13

喫茶店「1.9Lの魔法びん」は白熱電球の柔らかい光が店内を照らし、鎧戸のアーチ窓からは夕暮れの風が静かに入り込んでいた。カウンターの向こうでマスターがコーヒーを淹れ、テーブルでは蒼真が何かをじっと見つめている。
「どうしたの?」と、彩音が向かいの席から声をかけた。
「んー…」蒼真は、テーブルの上のビー玉を指で転がしながら答えた。「力って、なんだろうなって考えてた。」
「力?」彩音が首をかしげると、隣にいた悠生がにやりと笑った。「お、哲学タイムか?」
「いや、さっき喫茶店に入る前、葉月と話しててさ。」蒼真は小さくビー玉を弾いた。「結局、俺たちが“力”だと思ってるものって、本当にあるのかなって。」
「力はあるでしょ。だって、ほら。」悠生はコーヒーカップを持ち上げ、「こうして持ち上げるのも、力があるからでしょ?」と言ってみせた。
「でもさ、量子の世界では“力”なんてものは存在しないらしいよ。」と、カウンター越しにマスターが言った。
「え?」彩音が目を丸くする。「だって、ニュートンの法則とかあるじゃない?」
「それは、僕たちが日常で見てる世界の話だね。」マスターは静かにコーヒーを注ぎながら続ける。「でも、もっと小さな世界…たとえば、電子や光子の世界では、物体がぶつかる時に“力”は働かないんだ。」
「どういうこと?」蒼真が興味深そうに身を乗り出した。
マスターは、カウンターの上に二つのビー玉を置いた。そして、ひとつを指で軽く弾き、もうひとつにぶつけると、それが転がった。
「今、これは“力”が働いたように見える。でも、本当は違う。」
「え?どういうこと?」悠生が眉をひそめる。
「実際に起きているのは、運動量とエネルギーの交換だ。」マスターは静かに言った。「量子の世界では、粒子同士がぶつかった時、力じゃなくて“エネルギー”がやり取りされるだけなんだよ。」
「……つまり、力は幻?」蒼真がビー玉をじっと見つめる。
「そう。」マスターはうなずいた。「僕たちの世界では、たくさんの粒子が相互作用して、その結果が“平均化”されて、まるで力があるかのように見えているんだ。」
「平均…?」
「たとえば、テレビの映像を考えてみるといい。」マスターはカップを置いて続ける。「画面を近くで見ると、たくさんの小さなドットがあるだけ。でも、少し離れてみると、はっきりした映像が見えるよね?」
彩音が「あっ」と小さく声を上げた。「つまり、私たちは“力”があるように見える世界を見てるだけで、実際は量子の世界の“平均”を見てるってこと?」
「その通り。」マスターは微笑んだ。「僕たちの認識は、量子の動きをぼやかして、大きな法則としてとらえているんだ。」
「…じゃあ、私たちが思ってる“現実”って、もしかしたら本当の姿じゃないの?」と、蒼真がつぶやいた。
「かもしれないね。」マスターは遠くを見つめるように言った。「でも、その“平均された世界”が、僕たちにとっての現実だ。」
店の中に静けさが流れる。
ふと、カウンターの隅でコーヒーを飲んでいた無口な男が、ぽつりとつぶやいた。
「力は…手のひらじゃない。風が運ぶ…音のようなもの。」
その言葉に、蒼真は目を見開いた。
──見えない風が音を運ぶように、力もまた、ただのエネルギーのやり取りなのかもしれない。
ビー玉を転がす指先に、ふわりと見えない何かが伝わった気がした。
「見えない手のひら」了
あとがき
量子力学に関する面白い記事を見た。それによると
量子力学の世界には「力」という概念は存在しない。物体同士が衝突したときに起こるのは、単なる運動量とエネルギーの交換であり、そこに力は必要ない。実際、量子の世界では、物体が出会うと力を介さずにエネルギーが伝達される。
本来、この世界の真の姿は量子力学に基づいている。しかし、人間や動物の脳は量子力学を直感的に理解できなかったため、「物体に力が働いて動く」という擬似的な法則を作り上げ、それを現実と信じてきた。あまりにも精巧なこの法則により、人類は20世紀まで量子力学の存在に気づかなかった。
もっとも、日常の現象を理解するには量子力学は必要なく、力学の概念だけで未来を予測できる。これは、量子の世界を「平均」すると、私たちが「力」と呼ぶものが自然に現れるからである。つまり、私たちが見ている現実は、量子力学の「平均化された」姿なのだ。
こんな面白いこと、なんで今まで知らなかったんだろう。ということで物語にしてみた。
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