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気持 第6話

  • 執筆者の写真: Napple
    Napple
  • 1 日前
  • 読了時間: 2分

2025/5/15



冬日和、灯るもの


 その日も、「1.9Lの魔法びん」はゆっくりと時を刻んでいた。店の奥に吊られた柱時計が、午後四時を告げる音をひとつ鳴らす。窓から差し込む冬の光は柔らかく、白熱電球の灯りと溶け合って、空間全体をほんのりと橙に染めていた。


 春菜は、静かにカップを手に取った。少し冷めた珈琲の香りに、ふっと目を細める。向かいの葉月は微笑んだ。


 「あれ……あれは、あなた?」春菜の声は、遠くをたどるように、慎重で、どこかうれしさを噛みしめているようだった。


 葉月は、頷いた。「はい。あのとき……あなたの感想が、とても嬉しかったんです。あたたかくて、ちゃんと読んでくれていて。だから、あれからずっと、言葉を書くことをやめなかった」


 「わたしも……ずっと、あの句が好きだった。言葉にしなくても伝わる気持ちって、あるんだって、あの句に教えてもらった気がして」


 ふたりは見つめ合い、同時に笑った。それは、胸の奥に灯っていた小さな明かりを、ようやく確かめ合えたような笑顔だった。


 その瞬間、「1.9Lの魔法びん」の空気が、すこしだけ澄んだ気がした。マスターが遠くから微笑んでいる。陽翔がカウンターの奥でコースターを揃えている。凪紗は窓辺で文庫本を読んでいたが、そっと一度だけ、こちらに視線を向けた。


 世界は変わっていないのに、ふたりの世界だけが、そっと満ちていく。


 「気にかけるって、時には面倒で、苦しいくらいで……でも」葉月が言うと、


 「でも、それが誰かの灯りになることも、あるのね」春菜が続けた。


 ふたりのカップが、そっとテーブルの上に並んだ。もう、怯えすぎなくてもいいのかもしれない。言葉は残るけれど、それでも、誰かに届くことを信じてみてもいい。


 外の光が少しずつ色を変え、冬の日は、ゆるやかに終わろうとしていた。声にせずとも、たしかに灯るもの。それは、小さな奇跡のようだった。



「気持 第6話」(了)

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