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気持 第4話

  • 執筆者の写真: Napple
    Napple
  • 1 日前
  • 読了時間: 2分

2025/5/15



明日の余韻


 外は雨。静かに、しかし途切れることなく、窓を濡らし続けていた。葉月はカーテン越しの鈍い光の中で、プレイヤーに古いCDを差し込んだ。再生ボタンを押すと、すぐにハープの旋律が流れ出す。平原綾香の『明日』。この曲は、いつも何かをほどいてくれる。


「ずっとそばにいると あんなに言ったのに」


 そんな一節が、彼女の胸の奥に染みる。そう思ったことが、自分にもあった。けれど、気にかけるという行為は、思った以上に痛みを孕むことも知っている。



「……前に、ここのカウンターで見かけたんです。黙って紙片を置いていった方でした」春菜の小さな声が、ふと蘇る。


 数日前、1.9Lの魔法びんでの出来事だった。葉月が店に入ったとき、窓際の席に座っていた男性が、そっと立ち上がって出ていった。そのあと、彼の席には、小さな封筒が残されていた。春菜が中を確認すると、そこには短くこう綴られていた。


「ずっと、ありがとう。言えなかったから、ここに置いていきます」


 名前はなかった。けれど、その一行だけで、何かが満ちるような手紙だった。数日後、若い女性が、同じ席にそっと座り、封筒を開いて泣いていた。誰かを気にかけていた人と、気にかけられていた人。その二人が、この店で時を隔てて、ようやくすれ違ったような気がした。


 「気にかける」ことの本質。それは伝えようとする意志の形かもしれない。届くかどうかは、別の問題。けれど、その意志が交差するとき、たしかに何かが生まれる。


 カフェの扉を開けると、変わらぬ柔らかな音と香りが迎えてくれる。マスターが黙って会釈し、カウンター奥で春菜が葉月に気づき、小さく微笑んだ。「こんにちは」「こんにちは」それだけのやりとりで、どこか心が落ち着いた。


 その日も、窓際の席にいた若いカップルのような二人。言葉を交わさずとも、手紙の続きを書いているような気配があった。「手紙は届いたのかしら」そんな思いが、ふと葉月の心に浮かぶ。


 人の感情は、時にとてもゆっくりと流れる。けれど、その静かな流れの中で、誰かの明日を照らすことがある。『明日』は、そう教えてくれる。


 春菜がカップをそっと置き、言う。「雨」葉月は頷く。「でも、嫌いじゃないです。濡れるのも、悪くないかもしれません」「ふふ、そうですね」そのやりとりのなかに、葉月は言葉にしない何かを受け取っていた。


「気持 第4話」(了)

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