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気持 第3話

  • 執筆者の写真: Napple
    Napple
  • 1 日前
  • 読了時間: 3分

2025/5/15



1.9Lの魔法びんにて


 あの日も、今日のように曇っていた。たしか、午後から雨の予報が出ていたはずだった。葉月は紙袋を片手に、スーパーの帰り道を、足早に歩いていた。その途中、小さな木製の看板が目に入った。「1.9Lの魔法びん」。妙な名前だと思いながらも、温かな灯りに引かれるように、扉を押していた。


 最初に耳に届いたのは、柱時計の音だった。続いて、カップを置く陶器の音。静かに流れる音楽。客の声はほとんど聞こえなかった。葉月はカウンターの隅に腰掛けた。


 あれから、何度通っただろうか。季節が移り、言葉は交わさないけれど馴染みの顔ぶれができた。名前を知らなくても、その人の頼む珈琲の癖や、座る位置が自然と目に入ってくる。


 その中に、たまに現れる二人がいた。男性は、分厚い洋書を彼女に差し出した。何かしら?と微笑む彼女。男性に促されてページを捲ると、本は空洞になっていて、いろいろな色の紙が丸められて入っていた。驚いた彼女はその一つを開いて微笑む。ひとつづつ開いて丁寧に読んで。そうして最後まで読んだ彼女は、何も言わずに微笑んでいた。


 あれは、手紙だったのだろうか。ラブレター?何?何が書かれていたのだろう。気になって仕方がない、言葉少なな二人の姿。葉月は、いつまでも、そんな二人が忘れられずにいる。


 春菜とは、そんなある日、出会うことになる。湯気の向こうで、彼女は文庫本のページをめくっていた。一度、視線が交わる。軽く会釈をして、席についた。


 マスターが持ってきた紅茶は、少し香りが強かった。「今日はこれが合いそうな気がしてね」と、カップを置くときにマスターが言った。


 「その……この前、この店で、本をくり抜いて、あの、まるめた色紙がいっぱい詰まった本をプレゼントしている人がいて……」葉月は、思わず口にしてしまった。マスターは、ふっと目を細めた。「知ってますよ。大事な言葉は、声じゃなくても届くものですね」


 その言葉の余韻の中で、春菜が本から顔を上げた。「……誰か、手紙を書いたんですか?」葉月はうなずいた。「うん。多分……ずっと言えなかった気持ちだったのかなって、思ったの」春菜はしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。「それ、届いてるといいですね」その声に、なぜだか胸の奥が、少しだけ熱くなった。


 この店には、言葉にならない思いが、湯気のように浮かんでいる気がする。そしてそれは、気にかける、ということとどこか繋がっているのかもしれない。目に見えないけれど、確かにそこにあって、人の心に触れていく。


 その日、帰り際に外へ出ると、雨が降り始めていた。葉月は傘を取り出そうとして、少し立ち止まった。春菜が隣に立っていた。手には薄いグレーの折りたたみ傘。「ご一緒しますか?」彼女は、言葉に迷いがなかった。葉月は、少しだけ迷ってから、うなずいた。



「気持 第3話」(了)

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