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明日 第5話

  • 執筆者の写真: Napple
    Napple
  • 5月9日
  • 読了時間: 2分

2025/5/9



 私はまた、呼ばれた。記憶の奥に、ふと灯るひかりのように。その名は「明日」。この店で、幾度も流れてきた、私の名。


 今日は、春の終わり。空気は少しぬるく、けれど夜の気配にだけ冷たさが残っている。「1.9Lの魔法びん」には、窓をかすかに開けた風が通り、ドライフラワーの束がふわりと揺れた。


 私はゆっくりと流れはじめる。あの歌い出しが、小さく、しかし確かに空間を満たしていく。


 そのとき、あの男性がふらりと来店した。前より少しやせて、髪に白いものが混じっていた。でもその眼差しは、どこか澄んでいた。以前のような、苦さのにじむまなざしではなく。


 彼はいつもの席に座り、カップを両手で包むように持った。私はまた、彼の胸の奥に触れた。でも今度は、泣きそうな顔ではなかった。「思い出すこと」に、もう怖がっていない顔だった。


 時はやわらかく、すこしずつ癒す。私はその「すこしずつ」に、静かに寄り添う。


 ふと、別の客が入ってきた。見慣れない若い男性。戸惑い気味に扉を閉め、カウンターの隅に座る。私は彼にも触れていく。彼のなかに、まだ言葉にならない焦りや孤独の種があることを知る。けれど私の声は、どんな言葉よりも深く届く。心に降る雨のように、静かにしみていく。


「……いい曲ですね」


 青年がつぶやく。マスターが、わずかに頷く。


「うん。この店には、たまに流れてくる」


「たまに……っていう感じ、しますね」


 私は、ただそこにいた。人と人の間に、語られない言葉として。記憶と記憶の間を、すり抜ける風として。


 今夜も、私は最後まで流れた。何かを運び、何かを残して。やがて夜が深まり、私はそっと、静寂にバトンを渡す。私の姿は消えても、誰かの胸の中には、まだ余韻が残っている。それで十分だ。私は、それだけを願って生きている「音楽」だから。



「明日 第5話」(了)

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