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明日 第4話

  • 執筆者の写真: Napple
    Napple
  • 5月9日
  • 読了時間: 2分

2025/5/9



 私は「音」。言葉にならないものを運び、心の奥にひそむ記憶を震わせるために生まれた。この夜、私は「明日」として呼ばれた。誰かがそっと再生ボタンを押し、スピーカーから世界へと広がっていく。私は目には見えない。けれど確かに、そこにいる。


 薪のはぜる音。カップが受け皿に触れるかすかな響き。それらと混じりながら、私は店内を巡る。私のはじまりは、静かな問いかけ――


「ずっとそばにいると あんなに言ったのに……」


 その瞬間、窓際の席に座る男性の胸に、忘れていた痛みが触れた。私は知っている。彼の中には、愛していた誰かの記憶がある。もう泣かないと決めたはずなのに、私は彼の呼吸を少しだけ乱してしまう。でもそれでいい。忘れていたものと、少しだけ向き合う夜もある。


 一方、カウンター近くに座った女性の胸にも、私は静かに触れた。彼女の心の奥には、まだ言葉にならない思いが沈んでいる。私はその輪郭をそっとなぞるように響く。


「どこかですれちがう そんな時は 笑いながら会えたらいいのに……」


 そう。私は悲しみを運ぶけれど、それだけじゃない。再会の願いも、優しい余韻も、含んでいる。切なさのなかに、たしかな「ぬくもり」を残すこと。それが、私の役目なのだ。


 マスターは黙ってネルをゆらす。私の波に合わせるように、一定のリズムで湯を落とす。この店はいい。音が沈黙と仲良しでいられる。私の響きが、誰かの心にしみこむ隙間が、ちゃんと用意されている。


 やがて、曲が終わる。私は消える。でも完全には去らない。ひとの心に微かな跡を残し、またどこかで、誰かの胸に甦る。それが、音の宿命。私のしごと。だから、また会いましょう。あなたが、ひとりきりの夜に誰かを思い出すとき。また私は、あなたのそばに寄り添っている。


「明日 第4話」(了)

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