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明日 第3話

  • 執筆者の写真: Napple
    Napple
  • 5月9日
  • 読了時間: 2分

2025/5/9



 ネルを湿らせ、そっとドリッパーに重ねる。挽きたての豆は、深く甘い香りを立ち上らせていた。常連の男が、いつもの席に座ったのは、時計の針が七時を少し回った頃だった。


 無言で頷き、私はお湯をゆっくりと注ぐ。最初のひと雫が落ちる音に合わせて、店のスピーカーから平原綾香の「明日」が流れはじめる。今日はこの曲をかける気がした。理由なんていらない。そういう日というだけのことだ。


 男はじっと、カップを見つめていた。彼がこの店に通い始めて、もう何年になるだろう。多くは語らないが、少しずつ、彼の中にあるものがわかってきた気がしていた。言葉ではなく、沈黙の重みで、彼は過去を語る人だ。


「沁みますよね、この歌」


 私がそう声をかけると、彼は短く笑って「うん」とだけ言った。その「うん」のなかに、いろんな季節が入っていた。忘れようとした想い、抱きしめた孤独、そして、それでも過ぎていった時間。


 そこへ、もう一人の客が入ってきた。コートの襟をかかえた女性。どこか、帰る場所を探しているような瞳。席に着いた瞬間、彼女の表情がすこしほどけた。音楽と暖かさに、心がほどけたのかもしれない。


「ブレンドを」


 その一言の中に、今日は静かにしてほしい、という意思があった。だから私は余計なことは言わなかった。ただ、丁寧に、香りと時間を注いだ。


 音楽が続く。「どこかですれ違う そんな時は……」この曲がかかるとき、なぜか人は少し泣きそうな顔になる。泣かないくせに、泣きたくなる。そういう表情が、私は嫌いではない。むしろ、人がいちばん美しく見えるのは、そういう時かもしれないと思っている。


 今夜、ここにはふたりの客がいて、どちらも自分の内側に静かに耳を澄ませていた。私はその隣で、ただネルを洗い、豆を挽き、湯を落とす。役割はそれだけだ。けれどその音が、ふたりの孤独の間をやさしく満たしていることに、私は少しだけ誇らしさを感じていた。


「また来てくださいね」


 そう言うと、男は軽く会釈をして店を出た。彼が扉を開けた瞬間、少しだけ冷たい風が店内に吹き込む。けれど、席に残る彼の温もりが、それをすぐに打ち消した。私は振り向き、まだ席にいる女性に微笑んだ。


 「音楽の力が、少し強い夜です」


 彼女は、驚いたように、でもすぐに笑ってうなずいた。


「……ほんとうに」


 私はカウンターの奥で、また新しい豆を挽きはじめた。夜はまだ、静かに続いていた。



「明日 第3話」(了)

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