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明日 第2話

  • 執筆者の写真: Napple
    Napple
  • 5月9日
  • 読了時間: 2分

2025/5/9



 夜の街はまだ春の名残を引きずっていて、肌寒い風がコートの裾を揺らしていた。ふと足が止まったのは、柔らかな灯りが漏れる小さな喫茶店の前。古びた木の扉、アーチ窓に浮かぶシルエット。どこか懐かしい空気をまとったその場所に、吸い込まれるように入った。


「いらっしゃいませ」


 低く落ち着いたマスターの声。「寒かったでしょう」と言われ、はい、とだけ答えた。うまく言葉にならなかったのは、薪ストーブの匂いと、懐かしい音楽が、胸の奥をくすぐったから。


 流れていたのは、平原綾香の「明日」。懐かしい。けれど、どうして懐かしいのか、思い出せなかった。


 窓際にひとりの男性が座っている。年齢は私より少し上だろうか。彼の背中から、何かを思い出そうとしているような空気が伝わってくる。音楽に合わせて何かを呟いたり、少し笑ったり。まるで、心の中で昔の誰かと会話をしているみたいだった。


 私はマスターにブレンドを頼み、カップを両手で包むように持った。しばらく、そのまま音楽に耳を傾ける。その歌の言葉――「笑いながら会えたらいいのに……」それが胸の奥で静かに響いた。私もまた、笑いながら会いたい誰かがいたのだろうか。不意に、マスターの声がした。


「その歌、沁みますよね」


 私は驚いて、でもすぐに笑った。


「ええ、沁みますね。でも、どうしてかわからないんです。思い出せないのに、泣きそうになるんです」


「思い出せない記憶ほど、心の深いところにあるのかもしれませんよ」


 マスターの言葉が、まるで長い手紙の最後の一文のように優しかった。


 私はもう一口、コーヒーを飲んだ。暖かさが、胸の奥の曖昧な感情を、そっと抱きしめてくれる気がした。


「ここ、いいお店ですね」


「ありがとうございます。今夜は、音楽の力が少し強いみたいです」


 そう言って、マスターはカウンター越しに静かに笑った。ふと見ると、窓際の男が立ち上がり、出口へ向かっていた。すれ違いざま、彼と目が合う。


「……いい夜ですね」


 ぽつりと呟いたその声に、私は「はい」とだけ返した。店の扉が開き、冷たい風がひとすじ入ってきた。けれど、それはもう寒くなかった。私はもう少し、ここにいてもいいと思った。


 明日が来る前に、もう少しだけ、この夜を味わっていたかった。



「明日 第2話」(了)

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