明日 第1話
- Napple
- 5月9日
- 読了時間: 3分
更新日:5月9日
2025/5/9

薪のはぜる音が、ぽつ、ぽつと夜をあたためていた。白熱電球の灯りに照らされた店内。柱時計の針が、ゆっくりと夜の底を指している。喫茶店「1.9Lの魔法びん」。その窓際の席に、ひとりの男が座っていた。
カップから立ちのぼる湯気と一緒に、静かなメロディが流れてくる。平原綾香の「明日」。男はその旋律に、目を伏せた。
「もう13年か……」
つぶやいた声は、誰に向けるでもなく、空気の中にほどけていく。その表情に、苦悩や涙はない。ただ、懐かしさとも少し違う、言葉にならない感情が沈んでいた。
彼はかつて、ひとりの女性と共に暮らしていた。日々をともにし、笑い、すれ違い、そして別れた。今の暮らしは静かで、満ちている。誰のせいでもない。誰も恨んでいない。それでも、この曲を聴くと、どうしても胸の奥に触れてしまう。
「もう彼女を懐かしむことさえ、なくなったと思ってたんだけどな」
独り言のように笑う。自嘲ではなく、ただ静かな受け入れの笑い。
そのとき、カウンターの向こうで、マスターがネルドリップの手を止めた。
「それでも、ふとした時に、ふいに帰ってくるんですよね。気持ちって」
「……帰ってくるね」
男は苦笑しながら頷いた。
「それも、なんていうか……痛みをともなった美しさ、みたいなものだね。ちゃんと、生きてる証みたいな」
マスターは微笑みながら、コーヒーを一杯、男の前に置いた。
「味わってください。しんみりと」
男はカップを手にとり、そっと目を閉じた。「ありがとう。たまには、そういう夜も、悪くないな」
「ええ。音楽と記憶と静けさ。それが今夜のレシピですから」
柱時計が、小さく時を刻む音がした。窓の外には、誰にも見えない「明日」が、そっと降りてきていた。
「明日 第1話」(了)
あとがき
平原綾香の「明日」は、ドラマ「優しい時間」のエンディングテーマだった。富良野の喫茶店「森の時計」での静かな出来事が、今でも心に沁みている。薪ストーブのある店内。客が自分で豆を挽き、ネルドリップで淹れてもらうスタイルが、なんとも素敵だった。
「ずっとそばにいると あんなに言ったのに……どこかですれちがう そんな時は 笑いながら会えたらいいのに……」
歌い出しのその一節を聴いた夜のことを思い出す。あの頃ですら、なぜか胸が苦しくなった。この歌を聴くと、どうしようもなく感傷的な気持ちが湧いてくる。そしてその気持ちを、そっと抱きしめたくなる。慈しみたくなる。――私はこの感情を、楽しんでいるのかもしれない。切なく、悲しい想いを、どこかで味わっている。
……本当に、そうなのか?
自分でもよく分からない。ただ、そういう気持ちがあるというだけ。理由もないままに湧き上がる感情。ただ、そんなものなのだろう。名前のない、不思議な心のありよう。
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