2025/2/16
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喫茶店 「1.9Lの魔法びん」のマスターは、カウンターの向こうで静かに珈琲を淹れていた。店内には古びた柱時計の針が刻む音と、白熱電球の淡い光が揺れている。
「読んだか?」
と、マスターが言った。
カウンター席に座る俺は、手元のスマートフォンの画面を指でなぞる。そこには、名古屋大学の研究チームが発表した論文の要約記事が表示されていた。
「結局、量子力学でも熱力学第二法則は破れないらしい」
「そうかい」
マスターは相槌を打つと、ゆっくりとカップを俺の前に置いた。琥珀色の液体が、かすかに湯気を立てている。
「もしかしたら、とんでもないことが起こるかもしれないと思ってたんだけどな」
俺はぼやくように言った。
「起きなかった、っていうのがとんでもないことかもしれないぜ」
マスターはそう言って微笑むと、壁にかかった柱時計を見上げた。針は正確に時間を刻み続けている。
「世界は意外ときちんとしてる。たとえ量子の悪魔を飼おうがな」
俺は目の前のカップを手に取り、一口飲む。ほろ苦い味が、舌の上に広がった。
「でもさ、もし悪魔が本当にいたら、そいつはどこにいると思う?」
俺の問いに、マスターは一瞬だけ考える素振りを見せた。
「さあな」
そう言って、彼はカウンターの隅に置かれたガラス瓶を指さした。中には、小さな木彫りの鴨がひとつ、ぽつんと収まっていた。
「そいつか?」
「いや、これはただの置き物さ」
マスターはニヤリと笑うと、珈琲を淹れるためにまた背を向けた。
俺はスマートフォンの画面を閉じ、代わりに目の前のカップを見つめた。
世界は、きちんとしている。
それがどこか、ほんの少しだけ、残念な気もした。
「悪魔エンジン」了
あとがき
名古屋大学が「悪魔エンジン」の数学的モデルを開発 悪魔は世界の理を覆せるのでしょうか?というニュースをみて、どんな驚きが待ち受けているのだろうと期待した。
名古屋大学の「悪魔エンジン」数学的モデルとは?
マクスウェルの悪魔とは?
「マクスウェルの悪魔」は、1867年にジェームズ・クラーク・マクスウェルが提案した思考実験。これは、熱力学第二法則(エントロピー増大則)に挑戦するもので、理想的な「悪魔」が分子の運動を選別することで、外部からエネルギーを加えずに温度差を生み出し、永久機関のような動作が可能になるかもしれないというアイデア。
悪魔エンジンとは?
名古屋大学の研究では、このマクスウェルの悪魔の概念を応用し、「悪魔エンジン」という数理モデルを構築した。これは、量子力学の原理を活用して、熱力学第二法則を破るかのような振る舞いを持つエンジンを理論的に記述するもの。
量子力学とマクスウェルの悪魔
量子力学の世界では、古典物理学とは異なる現象が起こる。特に、情報とエネルギーの関係が異なり、観測や測定のプロセスそのものがエネルギーを生み出すことがある。量子版のマクスウェルの悪魔は、この原理を利用し、古典的な熱エネルギー変換よりも「見かけ上」エネルギー効率が高くなる可能性があると考えられていた。
「量子的悪魔祓いは不要」とはどういうことか?
論文のタイトル『No quantum exorcism for Maxwell’s demon (but it doesn’t need one)』は、「マクスウェルの悪魔に量子的悪魔祓い(熱力学的矛盾の排除)は通用しないが、そもそも必要ない」という意味になる。これは、「量子力学を考慮した場合でも、結局のところ熱力学第二法則は破れない」という結論を示唆してる。
つまり、悪魔エンジンの理論モデルを構築したものの、それが熱力学第二法則を本当に破るわけではなく、量子的な振る舞いを考慮しても結局エネルギー収支のバランスは保たれる、ということが示された。
結論
名古屋大学の研究は、「量子力学を利用すればエネルギーを無限に取り出せるかもしれない」という一部の期待に対し、「そうではなく、熱力学第二法則は依然として有効である」という結論を示したものと考えられる。つまり、量子力学を駆使しても「悪魔は世界の理を覆すことはできない」ことが数学的に証明された、というわけである。
ちょっとがっかりしたのであった。
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