2025/2/11
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「おかしいじゃないか」
蒼真は空を仰ぎ、呟いた。天文台の巨大な望遠鏡の下で、彼の心はざわめいていた。ジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡の新たな観測データが公表された。宇宙の膨張速度が、時間によって変化している。幼い宇宙と、今の宇宙とで「ルール」が違う。そんなことがあっていいのか。
「つまり……俺たちは、宇宙の基本的な仕組みすら誤解していたってことか?」
彼は研究室のデスクに戻り、数式を見つめた。ダークエネルギーの振る舞いが変化しているのか? それとも、時空そのものが歪んでいるのか?答えは出ない。
そのときだった。カタリ、と柱時計の振り子が止まった。蒼真は顔を上げた。いつの間にか、目の前に男が座っていた。黒いスーツに黒い帽子。顔は痩せこけているが、目だけが異様に輝いている。机の上で指をコツコツと鳴らしながら、彼は口を開いた。
「あんたんたらあ。いい夜だな。宇宙が謎めいている夜ほど、いい夜はない」
蒼真は男を見据えた。「誰だ、お前は」
男はにやりと笑った。「通りすがりの観察者さ」
蒼真は人の心の隙間に入り込み、意味不明な言葉を残して去っていく奇妙な男がいると聞いたことがある。彼のことを皆は「怪人案単多裸亜(あんたんたらあ)」と呼んだ。しかし、彼がここに現れる理由があるのか?
「何の用だ?」
案単多裸亜は、天井を見上げた。「宇宙が、君たちに嘘をついているとしたら?」
「……嘘?」
「そうさ。君たちは宇宙を信じている。光の速さ、時間の流れ、空間の広がり。そのすべてを前提にして、計算し、理解しようとしている。でもね」
彼は指を一本立てた。「宇宙は、最初から正直者だったわけじゃない」
蒼真の背筋が凍った。
「それは、どういう意味だ」
案単多裸亜は懐から古びた懐中時計を取り出し、蒼真の前に置いた。時計の針は、ゆっくりと逆回転し始めていた。
「君は、過去と現在でルールが違うことに驚いたようだが、それは当たり前のことさ。宇宙のルールは、最初から可変だった。 ルールはいつも変わる。人間社会だって、昔と今で法律が違うだろう? なのに、なぜ宇宙だけが永遠に同じ法則であるはずだと思った?」
「それは……」蒼真は言葉に詰まった。
そうだ。自分は無意識に、宇宙を「変わらないもの」と考えていた。しかし、それ自体が思い込みなのではないか?
「なら、お前は知っているのか? 宇宙の本当のルールを」
案単多裸亜は肩をすくめた。「さあな。ただ、こんな言葉を知っている」
彼は懐中時計を指で弾いた。
「宇宙は観測されることで形を変える。観測者によって、ルールすら変わる。」
蒼真は息を呑んだ。それは、まるで――
「……量子力学の観測問題みたいだな」
「そう。だが、それがミクロな世界に限った話だと、誰が決めた?」
案単多裸亜は立ち上がり、帽子を目深にかぶった。
「君たちは、宇宙の『成り立ち』を知りたがっているが、本当は、『宇宙の成り行き』に振り回されているに過ぎない」
「俺たちは……振り回されている?」
「そうさ。宇宙は、生まれた瞬間から『変わり続けるもの』だったのさ。ルールが違っていたのではなく、ルールが『作られながら変化している』んだ。気がついていないのは、君たちの方だったんだよ」
蒼真は何かを言いかけたが、その前にカタリと時計が動き出した。
――気がつくと、案単多裸亜は消えていた。
デスクの上には、あの懐中時計が残されていた。針は止まったままだ。
蒼真はそれを手に取り、そっと呟いた。
「……宇宙は、嘘をついているのか?」
それとも、人間が真実を見抜けていないだけなのか。彼は時計を握りしめ、夜空を見上げた。宇宙は、何も語らないまま、ただ広がり続けていた。
「宇宙のルール」完
あとがき
「宇宙は現在、天文学の理論で説明できる値を上回る速度で膨張しているとの、ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡(JWST)の最新観測データに基づく研究結果が発表された。アダム・リースは「宇宙の膨張速度の観測値と標準モデルの予測値との間の食い違いは、宇宙に関する理解が不完全である可能性があることを示唆している」というニュースを目にした。どういうことだろう?これを怪人案単多裸亜に説明してもらったらおもしろそうだ。ということで生まれたこの物語。面白くなってきた。
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