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中にあるものの物語

  • 執筆者の写真: Napple
    Napple
  • 3月13日
  • 読了時間: 2分

更新日:3月15日

2025/3/13



 男は喫茶店の片隅に座り、窓の外をぼんやりと眺めていた。テーブルの上には冷めかけた珈琲。壁際の柱時計が小さく時を刻んでいる。


 彼の頭の中では、ひとつの場面が繰り返されていた。明日会う予定の人との会話。こう言ったら、ああ返ってくるだろう。そうしたら、次は——。そんなふうに、順を追って場面を組み立てていく。いつものことだった。幼いころから、何かの前には必ず頭の中で予行演習をする癖があった。準備というより、一種の儀式のようなものかもしれない。


 ふと、口をついてメロディが漏れた。彼は我に返って、周りを見渡す。誰も気にしていない。先ほど店内で流れていた音楽が、まだ体の中に残っていたらしい。こういうこともよくある。音楽は、時に言葉よりもしつこく残るものだ。


 男はもう一口、珈琲を飲んだ。窓の外では、通りを行く人々が忙しげに足を運んでいる。


 頭の中には、言葉と音楽と映像がある。それらはいつも混ざり合い、時にぶつかり合いながら彼の思考を形作っていた。だが、どれほど鮮やかに思い描いても、いざ言葉にしようとすると、何かが違ってしまう。文章にしても、音にしても、完璧に再現することは難しい。だから、何度も繰り返し、少しずつ削ったり、足したりして、もっとも近いものを選び取る。


 彼は鞄の中からノートを取り出し、何かを書きつけようとした。しかし、ペンを走らせる手が止まる。まだ、言葉が定まらない。


 「お待たせしました」


 声がして、彼は顔を上げた。マスターが新しい珈琲を置く。気がつけば、最初のカップはすっかり冷めていた。


 「考えごとですか」


 男は曖昧に笑った。


 「ええ。言葉を探しているんですが、どうもしっくりこなくて」


 マスターは少し考え、それから静かに言った。


 「それは、きっと見つける旅の途中ですね」


 男は目を瞬かせた。旅?


 「誰でも、自分の中にあるものを確かめたくなる時があります。言葉にするのも、音にするのも、絵にするのも、きっとそのためでしょう」


 男はノートに目を落とす。確かに、自分は何かを確かめたくて、こうして書いているのかもしれない。自分の中にあるものがどんな形をしているのか、それを見つけるために。


 ふっと、彼は小さく笑った。


 「旅の途中、ですか」


 マスターは静かに微笑んだ。


 ノートの上に、ひとつの言葉が落ちる。


 「未知なるもの」


 それは、自分自身のことなのかもしれない。



「中にあるもの」了

 

あとがき


 駄文「中にあるもの」からできた物語。

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