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ヒルベルト第六の謎 第一章 

  • 執筆者の写真: Napple
    Napple
  • 5 日前
  • 読了時間: 4分

2025/5/11



『風を読む者たち』


 どこか遠く、けれど確かに“いま”に続く未来。都市国家《ワーランブール》では、あらゆる人の行動が、毎秒観測されていた。


 誰がどこで歩き、何を考え、どんな夢を諦め、どんな希望に火をつけたか。すべては光粒子のように記録され、無名の“統計士”たちによって、巨大な数式の海へと還元される。


 この都市に一人、名もなき解析官がいた。その者は、人の流れを見ることが好きだった。買い物客の歩調、通勤者のため息、広場の沈黙。誰ひとりとして同じ動きをしないその群れが、ある方向へと“向かっていく”瞬間があるのを、彼は感じていた。


 ある日、彼は一つの古い文書にたどり着く。タイトルは、《Hilbert’s Sixth Problem》。そこには、かつて地球に存在した学者たちの、静かな戦いの記録があった。


 無数の粒の運動を記述するボルツマン方程式。それが、やがてナビエ–ストークスという「流体の詩」へと姿を変える。混沌から、秩序が生まれる過程。その文章に、彼は雷に打たれたような感覚を覚えた。


 「これは…都市そのものだ。ばらばらの人間の心が、ひとつの“風”になる。あれは…予測ではなく、理解だったんだ」


 その夜、彼は旧世界の書庫から、もう一つの書を見つける。アシモフ:『ファウンデーション』。そこには、銀河の未来を“統計力学的に”導く学問――心理歴史学が描かれていた。


 「数学者セルダンは、人類史を方程式に組み込んだ。未来を読むために、個を捨て、流れを見る術を選んだ」


 それは空想だったはずだ。けれど解析官の中で、すべてが一筋に繋がった。


ヒルベルトの問い。

ボルツマンの答え。

アシモフの夢。


 そして、今この都市で起きている、名もなき人々のうねり。



 《ワーランブール》にある風が吹く。誰にも見えないが、確かに方向を持った風。解析官はそっと目を閉じ、その風を感じる。


 怒りが集まり始めている。不安の粒子が、未明の市場に漂っている。だがその奥には、あたたかく、痛みに満ちた、希望の初期流が見える。



 ある夜、彼は報告書の末尾にこう記した。「予測ではない。これは、“風の読解”である。ばらばらの感情たちは、いつか流れになる。私たちはそれを、ただ静かに、見つめていればいい」


 その記録は、やがて未来の誰かが読むことになる。その誰かがまた、風を感じ、問いを紡ぎ直すだろう。


 “流れは、どこへ向かうのか?”“その風を、私たちは受け止めることができるのか?”



「ヒルベルトの第六の謎 第一章」(了)


あとがき


 この物語は、ある論文をAIに解説してもらったことから始まった。その論文――“Hilbert’s sixth problem: derivation of fluid equations via Boltzmann’s kinetic theory”は、数学者ダフィッド・ヒルベルトが1900年に提示した「第六問題」への数学的なアプローチだった。ヒルベルトの“第六の謎”と呼ばれるこの問題は、こう問いかけている。粒子一つひとつは、ただぶつかり合いながら動いているだけなのに、それが集団になると、まるで液体や気体のように、なめらかに流れ始める――いったい、なぜそんな不思議な現象が起こるのか?その問いを聞いた瞬間、僕の心には、アシモフの『ファウンデーション』に登場する「心理歴史学」のイメージが浮かんだ。


■「心理歴史学」は、もう始まっている?


 アシモフの描いた心理歴史学は、フィクションだった。でも、現代の科学ではその“入口”に立っているとも言えるようだ。


  1. 行動のビッグデータ:スマートフォンやSNSの普及で、「行動粒子」は日々記録され、集約されている。たとえば、Googleの検索トレンドや、Twitterの感情分析。何億もの「つぶやき」から、国全体のムードや流行、時には選挙の傾向まで見えるようになってきた。これはまさに、「ボルツマン方程式の現代版」。個々は自由に見えて、全体には流れがある。

  2. 経済モデルや疫学における“集団振る舞い”:株価や経済の動きも、一人の投資家ではなく“市場全体”の感情・期待が動かしている。COVID-19では、人々の移動と接触の「粒子モデル」から、感染の広がり=流れを予測した。

  3. 人工知能による意思決定のモデリング:AIは、人間の「意思決定パターン」を統計的に学び、ある程度の未来を“ありうるもの”として予測できる。将来的には、都市全体、国家全体の“意思の分布”を読む技術も現れるかもしれない。



■でも、本当に“未来”は読めるのか?


ここに大きな問題がある。


  • 人間は「予測される」と知ると、意図的にその予測を外そうとする。

  • 社会には“外乱”――予測不可能な出来事(災害、発明、思想)――が入り込む。

  • そして、「倫理」。未来を“予測する側”が権力を持ちすぎるとどうなるのか?


 心理歴史学やヒルベルト第六の謎には、科学と哲学と政治が交差する危うさがある。

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