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すれ違いの温度 第4話

  • 執筆者の写真: Napple
    Napple
  • 5月6日
  • 読了時間: 2分

2025/5/6



「レモンを添えて」


 彼と別れてから、喫茶店「1.9Lの魔法びん」には近づかないようにしていた。行けばきっと、何か思い出してしまう。あの店には、沈黙がよく似合いすぎている。それが怖かった。


 でも、その日は、なぜだか足が向いた。理由なんてない。ただ歩いていたら、気がつくと店の前に立っていた。季節が少しずれていて、空気が違った。彼と来ていたころより、少し暖かい。


 ドアを押すと、カラン、と小さなベルが鳴った。マスターは奥から顔を出して、少しだけ目を細めた。「いらっしゃい」それだけで、何も聞いてこない。ホッとした。


 窓際の、あの席には座らず、今日は少し奥まった席に腰を下ろした。誰もいない店内。少しだけ、気が緩んだ。


「紅茶を。……レモンを添えてください」彼と来ていたころと同じ注文。だけど、今はひとり。


 運ばれてきたティーカップの向こうに、マスターの静かな視線があった。「……今日は、暖かいですね」「そうですね。もうすぐ春ですから」


 言葉が短くても、ちゃんと伝わるときがある。あの人とは、どうしてできなかったんだろう――そんな思いがふと胸をよぎる。


 紅茶をひと口。レモンの香りが、ゆっくりと過去の記憶をほぐしていく。あの人がくれた、あのめんどくさい手紙。ちぎられた折り紙。くしゃくしゃの感情。あのときは受け止めきれなかった。でも今なら――そう思える自分がいる。


 帰り際、レジでマスターがふと声をかけてきた。「……この前、彼も来ていました。コーヒーと、レモンティーを頼んで」


 彼女は、何も言わなかった。ただ、少し笑っただけだった。


 帰り道、風がふわりと吹いて、マフラーの端を揺らした。それが、あの人の不器用な愛情みたいに思えた。


 もう会うことはないかもしれない。でも、どこかでお互いに、思い出してるかもしれない。


 そしてまた、紅茶を飲みに来ようと思った。「ここにあった温かさ」を、今度は自分の手で、大切にできるような気がしたから。


すれ違いの温度 第4話「レモンを添えて」(了)

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