2021/9/16 MY ESSAY Lovely
To err is human. To forgive lovely.
1974/6/14 Friヨリ
僕の気持ちなんか、誰にもわかるものか、そう思っても、誰かにわかってもらいたい。・・・
僕は本当に感じるのだけど、人と人の関係なんて、本当におかしなものだな・・・
なぜ僕がこの本を作るか、何のために、僕がこの本を作るか、そんなことはどうでもいいと思うけど、やっぱり、何か理由を知りたい、でも僕はナニも教えてくれないのです。・・・
僕が一人でポケットに手を突っ込んで寂しく歩いているのは、気取っているからさ、操作、それだけなのさ、ちっとも寂しくなんかない。ちっとも寂しくなんか・・・
The most necessary thing for me now is to see her.
人の心はいつもそこにいるとは限らないのです。
Part1
長い長いプルルーグ
僕は旅に出る
いったいどこへ着くのだろう
どんなことが待ち受けているのだろう
幸せを捕まえられるだろうか
僕にはナニもわからない
だけど旅に終わりが来るのは知っている
だけど僕は終わりたくない
だけど・・・
SHADOW
8月27日 3:41
外は雨が降ってる。今僕はナニも考えることなく、じっと自分の世界の中へ沈んでゆく。部屋の隅では、悲しげな物音が、一つの箱から流れてくる。それは何と自然に。段々と部屋は暗さを増す。影というものが、こんなにも寂しく、こんなにもいろいろなことを語ってくれるなんて。今まで影をこんな不思議に思ったことはないだろう。部屋にある形あるものは全て形を変え、色あるものは、みな黒に塗りつぶされてしまった。あまりにも感傷的な空間。でも僕は何にも感じない。安らぎの中の不安。時計の針は容赦無く時を刻んでゆく。僕は時間を失いたくないのに。なんて雨の音は、無限なんだろう。じっと耳をすませていると、果てしない世界が僕の頭の中を駆け巡り、僕は押し潰されそうになる。僕は、このまま年老いてしまうのだろうか。
無題
私の母は27歳でした。美しく清らかで、私にとってはこの世で1番の宝であり、かけがえのないものでした。当時5歳だった私は、その美しい宝石のような私の母に、恐ろしい悪魔の手が伸びていようとは知るよしもありませんでした。あの恐ろしい現実をもたらした日は、あまりにも静かで、何にも起こるとは思えない夏の始まりでした。私は小学校一年生で初めての夏休みを迎えることに胸を踊らせてはしゃいでいました。母は私を愛し、全ての愛を私の元に注いでくれました。私が初めて成績表をもらってくる日をまるで子供のように待っていました。もちろん成績のことも気になるのでしょうが、何といっても、自分の愛する子供の成長を成績表を手にすることで、自分の手で握りしめ、実感したかったのでしょう。そしてその日、私は学校が終わると早く母に成績表を見せたくて、駆け足で帰ったのです。家に着くと母は優しい笑顔で私をむかてくれました。私は嬉しくて母の胸の中に飛び込みました。母は私が痛がるほど強く抱きしめてくれました。私はあまりの喜びで、母の顔が白く、体も冷たく冷えているのに気がつきませんでした。
その夜、父は母の顔色の様子を気にしていましたが、私は明日から始まる夏休みのことで胸がいっぱいで、父と母の話を少しも覚えていません。私は父に飛びついて、海に行きましょう、海に行ってみんなで泳ぎましょうと、三人しかいない私の家を一人で賑やかせていました。母はそんな私を見つめ優しく微笑みかけるのです。私は母の微笑みほどこの世に美しいものはないと思いました。父は私の顔を見つめ、優しく微笑みながら、1週間ほど出張せねばならないので、海へ行くのは1週間後だと私に言いました。私は少しつまらなそうな顔をしましたが、海へ行けるのを喜び、その世は自分の部屋で、母が作ってくれたお人形を抱いて遅くまで、いろいろなことを考えるのでした。でも幼かった私は、いつの間にか眠りにつき、父と母が私のほおに頬ずりしておやすみと優しく布団を直している頃には、夢の中で海に行きはしゃぎまわっていました。
母が入院したのは翌日でした。父の出張は外国で、1週間は帰れないということでした。私は泣きました。わんわん泣いて、母のベッドの横にしがみついていました。母は優しく、軽い病気だから心配しないでと優しく私の顔の涙を拭き取ってくれました。私は、母の腕をしっかりと掴み、どこにもいかないでと母に言うのでした。母の顔にも一筋の光が流れました。
二日ほど経つと、母は退院しました。しかし母が無理に病院に頼んで退院したのを私は知りませんでした。私はすっかり母は良くなったのだと思い喜んでいました。その夜、私は母と一緒に幸福を感じながら眠りました。翌日は母早くから起きて身の回りの整理をしていました。私も手伝いました。母は私に言いました。いつまでも一緒にいましょうね。私はその言葉の深い意味など分かりませんでした。ただその言葉が嬉しくて、いつもの何倍も母に甘えました。母は私を愛してくれました。母の愛は私を限りない夢の世界へと運んでくれました。そして・・・
私が昼寝から覚めると、母は私の横でうちわを仰ぎながら、私の顔を見つめていました。その顔に一筋の涙が光っているのに私は気がつきませんでした。母は私にジュースを作ってくれました。私はジュースを持ちながら母に、お父さんが帰ってきたら海に行きましょうねと希望に満ちた目で母を見つめ次々と自分の夢を話し出しました。私は幸福でした。私の話を聞きながら、母は急に声を出し泣き出し、私のジュースを無理矢理取り捨て、私を抱いたのです。強く。母はジュースに毒を盛っていたのでした。母は自分に死の手が回っているのを知っていました。そして、当時、以前から、体の調子が悪いと父に対して妻の仕事をしていなかったため、父はやはり我慢できなかったらしく、浮気をしていたのでした。そのため母はすでに生きる望みを失いつつあったのです。でも母の私に対する愛はそれはそれは深いものでした。母は私と別れるのが辛くて、ついには、私を連れて死の世界へ旅立とうとまで考えたのでした。もちろん私はそんなこと知るわけもないことでした。
母は私が痛いと鳴くのも聞こえないらしく、私を強く抱きしめたままおいおい泣きました。私は意味もわからないまま母と一緒に泣きました。母はしばらくしてから静かに言いました。「海に行きましょう・・・」
私は今まで泣いていたことをすっかり忘れて喜びました。「ねえ今すぐ行くの。」母は優しく微笑み「今すぐよ」と言いました。父はいません。「私はお父さんと一緒に行かないの」と尋ねました。すると母は「時間がないの」と力のない声で言いました。時間、私は何の時間のことかわかりませんでした。でも海に行ける喜びでそんなことはどうでも良かったのです。私と母を乗せた列車は、全ての出来事を見守るように規則正しくゴトン、ゴトンと時を刻んでいました。母はできる限り私の望みを叶えてくれました。そして甘えさせてくれました。・・・・・
海から帰って数時間後、母は癌で死にました。母の癌は発見が遅かったため、病院に入院した時はすでに後数ヶ月の命しかないとカルテに記入してあったそうです。数ヶ月の命・・・母は入院してからわずか四日で死んでしまいました。母は入院した時すでに死を予感していました。そして残り少ない命を全て私への愛に使ってくれたのでした。母は二日で退院しましたが、その時はがん細胞が広がって体は常に痛みに襲われていました。母はその痛みを少しも顔に出さず、私へ笑顔を送っていてくれたのでした。
9月8日Sunday 実テの前日
漢字の勉強と文の勉強のつもりで書き出した。
僕の好きなもの。
お袋の作った野菜と肉のごってり入ったごっちゃ煮・ビートルズ・井上陽水・かぐや姫・前の晩のおかずの天ぷらを残しておいて、次の日の味噌汁につつこんでふやけたのを熱いご飯の上に乗せて食うこと・出涸らしのお茶・サイモンとガーファンクル・ひやむぎ・冷麦つゆで食った残りを白味噌と酢で和えたたれで食うこと・あのねのね・チャップリン・お父さんとお母ちゃん・髪の長い女の子・力を入れなくても出るうんこ・岡ブラ・ピアノの音・ピアノの弾ける女の子・広々とした原野を馬に乗って彼女の家にゆくこと・お袋の手垢をこね回して作ってくれた握り飯・浅田美代子・風吹ジュン・俺の部屋・雨のしとしと降る薄暗い中でスポットライトを点けてステレオをガンガン聞くこと・勉強もせずに横になって本でも枕にして女の子のことを考えること・虫の声・弦を張り替えたばかりの俺のギターの音・フルートの音・テレビやラジオの裏を覗くこと・機械を直すといって壊すこと・デパートを歩くこと・綺麗な目の女の子・すごい万能のスポーツマンになった夢を見ること・しょんべんが真っ直ぐ前に出た時・オナラ・着物の似合う女の子・昼寝・ジーパンの似合う女の子・料理のできる女の子・女の子
ある日僕は
ある日僕は、しょんべんのやり方を考えながらしょんべんをした。すると、どこに力を入れるとしょんべんが出るのかわからなくなってしまった。腹はパンパンに張っているのに、一向にしょんべんが出ない。息子が痛がっている。早く出したいと焦るから余計なところに力が入って屁が出る始末。10分ほど頑張っても出ない。えい、どうにでもなれと息子から手を引くと、いきなり息子は首を振りながらしょんべんを出しやがった。おかげで便器から多量なしょんべんがはみ出した。掃除当番しっかり綺麗にせいよ。
長月 十日あまり三日 金曜日 晴れ
人の魅力というものは、本当に顔じゃないんだ。自ずから湧き出てくる、その人その人の、人間臭さというものが人の魅力というものだと思う。僕の好きな彼女は決して美人でもなければグラマーでもないと思った。ただ心は明るく美しいと思った。そこがとても良かった。もっとも今となると、そんな彼女も、僕にとっては美人であるし、世界一グラマーに見えるのであるが・・・
僕は彼女に愛を告白しました。
彼女はお花の手紙で答えてくれました。
でも僕の悲しみは大きなものでした。
「フラワレター」
泣きながらGoひどみが手紙を書きました。
「ねえ、ひどみ君、どないしたねん」と聞きました。
「スタレター」
「ビートルズを知ってるかい」
とおっさんに尋ねたら
さも誇らしげに「しらんわい」と答えるので
「何やカブトムシも知らんのか」といってやった
ー紙ー
ここに一枚の紙がある 何に使うか
計算用紙にする?フン受験生的発想だ虚しすぎる。
子供のように紙飛行機を折ろうか。
そしてどこまで飛ぶか飛ばせるか
でも行き着くところは地面の上、挙げ句の果ては雨風にからかわれて去ってゆく。
ラブレターを書くにも、差し出す相手がいない。
鼻を噛んで捨てるか。・・・
今日は明日で昨日
今日は昨日からいえば明日で、明日からいえば昨日なのだ。・・・
人はこんなふうにして暇を潰すのです。
11月28日
彼女へあげるために、愛を育てるカゴを作りました。
彼女からもらう愛のために、小さな宝箱を作りました。
一つづつ一つづつ持たせてあげよう僕の幸せを。
10月15日 午前3:00
こーちゃの美味しい入れ方
僕は根が卑しいのか、どうも欲張りで、何でも多い方が好きなのです。食べ物などは、たとえ僕一人では食えないと分かっていても、多い方が好きですので、いつも多く作ってもらいます。また卑しいことですが、「あ、オヤジの方が多い」などと、卑しく口争いもたまにしました。
さて、そこでコーチャの美味しい入れ方についてですが、僕はいつも多い方が好きなので、角砂糖を3〜5ケ入れ、カップにはお湯をたっぷり注ぎ、チーパックはたっぷり十分ほど浸けて、どす黒くなるまで頑張ってやっていました。結果は妙に甘くて苦くてとても飲めません。ある日僕は、自分の方針を曲げて、角砂糖を2ケ、チーパックは3分、お湯はカップに半分ほど入れ、極力卑しさをぬぐい捨てて飲んでみますと、誠に美味しく飲めました。しかし、僕の癒しさは、その後まだ続いており、美味しい方のやり方で3杯ほど飲みますので、最終結果、頭にガンガンくるのです。僕はコーヒーコー茶の最後の一滴がとても苦いので大嫌いです。この前無理して飲んだら、頭にガーンときて、いつも解けない算数の問題を2問も解いてしまいました。その後唸りながら寝込みました。
10月13日 午前3:30
こんなふうに文を並べている時、僕は興奮しているので、素晴らしい並べ方をしていると思っているのだが、後から読んでみると、何と支離滅裂な幼稚かバカかという悲し感想しか湧いてこない。並べている時は本当にいい気持ちでもしかしたら俺は天才かもしれないなどと思っているのであるが・・・
ま、こんなもの人に見せるわけでもないので、何を書こうと勝手なのだが。僕はどういうわけか、友達が僕の家を訪れるたびに、この冊子を見せびらかせている。俺は恥知らずか、それとも露出狂か・・・?
ーついしんー
以上の文において「文を並べる」とこいたが、日本には古くから、清音48+1、濁音20。また、意味上異なる語など合わせて87音ある。いやあった。今はだいぶ簡略化されもう少し少ない。さてこれだけある語から字を拾い並べるといく通りの文ができるだろう。そしてその文を並べていったら、いく通りのお話になるだろうか。考えるには僕の生涯はあまりにも短すぎる。なぜなら僕が死んでしまってもまだ新しい字の並べ方分の並べ方は生まれるであろうから。字って不思議だな。
よくわからないのだけど
僕は何かしなくてはならないことがある・・・と、そんなふうに感じているのです。何かしなくてはいけない。僕にしかできない何か、すごく使命的それを感じるのです。
それは何だ。
PART2
ここに俺の心第一部が入る
第一章
第二章
我が露出狂の精神
2月7日
僕は、自分でも少しおかしいのではないか。俺は馬鹿かと思うことがある。僕の常に思う精神は「何をやっても楽しくありたい」ということである。だから何かをする時、こじつけでもいいから楽しくしようと思っている。また、心の中で、色々と考え方をあっちゃこっちゃさせて、そう思うのである。でも誤魔化しは嫌いなんだよ。だから誤魔化したくない。
僕は支離滅裂な方だから、自分でも今何がどうなってるかわからなくなることがある。だから、口ではなんか訳のわかったようなそうでないようなことを言って、楽しくやっているみたいに他人が見ると思うかもしれない。僕自身もうそんな時は本当は何が何だかわからなくなっていて、結局自分を誤魔化す羽目になる。
つまり、僕はやっぱり阿呆なのか・・・
人は、心の底から自分を阿呆とか馬鹿とはやはり思わないと思う。僕もそうなのだろうけど、本当に時たま自分はやっぱり阿呆だと思うことがある。
僕は本当に思うのだけど、人間て、本当に秘密にしたいと思うことほど、逆に人に話したくなるってことがないだろうか。つまり露出狂的面が誰にでもあると思うのだが。僕などは最近特に自覚し出した。まさに僕は露出狂であると思う。例えばこの本だ。以前も書いたことがあるけど、自分の気持ち、意見などを綴っているうちに、人はどう思うだろうとか、恥ずかしいけれど、僕のこの気持ちを何となく伝えたい、そしてそれらについて、何か、他の人の気持ちを聞きたいと思うようになってくるのである。
あーあ、今日は何だか変なことを書いたな
受験期でこんなもの書いていられないのに。
気があせるもんだからちっとも意味がないや。
第三章
生きるために
6月23日
今ようやくわかった気がする。
僕は何のために今勉強しているのか。
何のために今この本を書いているのか。
何のために、何のために、何のために。
それは簡単だった。それは生きるために。
今ようやくわかった気がする。
僕は何のために恋をするのか。
何のために心をときめかせるのか。
何のために
それは、それは、生きている証なのだ。
そうさ、僕がすること、思うこと、全てが僕が生きるために必要なことなんだ。そしてそれは全て僕が生きていることの証なんだ。
でも、生きることって、何なんだ。突っ立って立って息をしてりゃ生きていることになるのか。いや違うさ、それは生きてるんじゃない、生きるということは、そんな無味乾燥なもんであるものか。生きるってことは、楽しいことがいっぱいあって、おまけに苦しいこともいっぱいあって、でもそれが全て今の僕には生きるための全てで、大切で、嬉しくって、何だか、こう、パーット力が湧いてきたみたいで、今僕は生きているんだっていうもんよ、わかったか。
テイラーさんの行った猿の惑星も轍の行った大地球も、結局自分たちが元住んでいた地球の成れの果てだった。やっぱ、人間は地球に住むのが一番ええということなのか、地球から出ることはできないということなのか。
まーなんだかんだ言っても、人間はいっぱいいる限り、どこに住んでも同じなのだ、住みにくいのに変わらんよ。
77’10月20日 金曜日 夢の中にて PM1:20
ついに人類が宇宙に進出する時が来た。次々といろんな星にたどり着く。ところが、地球人がたどり着いた星々はなぜか続々と荒廃していった。何を隠そう地球人こそが貧乏神だったのだ。ナンチッチ
PART3
俺の世界
1976年に入りました これ以前のページは1975年度発表のものです。悪しからず。
9月23日
僕はいや俺は今大学生である。
ここからのページは、高校時代の俺でも、浪人時代の俺でもない。もちろん高校・浪人時代に書き綴ったものもここに登場してくるが、そこには大学に入った俺の一つ前進した俺の気持ちがかつての俺とどう違うかを比べるために出てくるのが多いだろう。
絵についていえば、かつての俺とは違った、新しい描き方が大学になってから生じた。岡崎の家の近くの1.9ℓの魔法びんにある雑記ノートへボールペンで書き込んでいた時に始まった。テーブルの上にある静物を描き出してから、俺の絵はボールペンによる立体感のある絵へと移ってきた。色々のものを黒一色でr、点と線で描くのは面白い。
昭和32年3月23日生まれ
昭和52年3月
俺は20歳
52年の1月15日に成人式を済ませ、まだ19歳のうちに大人になった。
1月15日から3月23日までの10代の大人、ふわふわしたあいのこの日々
俺はこの日がどういう意味を持っているのか少しもわかっていない
なのになぜか一つの区切りのような妙に古臭い信心臭いものを感じているようだ
俺はこの愛のこの日のうちに何かを得ようと思った。
中村行宏
ただ今はたち
身長:170.5cm
体重:65.0kg
性格:不明
ここに俺の心第二部が入る
第三章「結局なにがなんやらの大阪我下宿時代」
1978/5/28 日曜日 PM8:25
俺は全くの一文なしになってしまった。1ℓ入りのコーラの瓶を売ってみた多、300円ぐらいかと思ってたのに、1000円にもなった。やっぱりザックいっぱいに詰めて行ったおかげだろうか。買い物の時にできる1円や5円の小銭をコーラの瓶にぶち込んであったのを、ガサガサ出すとやっと100円ぐらいになった。あまりたまらないもんだ。そうこうしながら食い繋いでいたけど、本日に至って、ついになに一つお金やら、お金に化ける代物までなくなってしまった。
細川にタバコをもらい、部屋にある小麦粉をぬちゃぬちゃねってパンを作り、こー茶を沸かしたり、細川の買ってきたコーヒー豆でコーヒーを入れ、上続先輩の部屋からかっぱらってきた砂糖を入れ、お使いの駄賃に賢治に奢ってもらったコーラを飲み、みんなが揃って飯を食いに行く時は、俺は大人しく一人で部屋に閉じこもって動かないことにした。そんな今、飯を食い終えて帰ってきた賢治と細川が、チラシ弁当を買ってきてくれた。俺は最近泣かない。涙が出ないからだ。でも、なんとなく、目頭がジーンと熱くなる感覚は残っている。
6/6 火曜日 PM9:55
今日、またまた、俺たちはつるんでクラブをサボってしまった。杉本と俺のオンスの日らしい。なぜか街をふらつきたくて仕方ない衝動に駆られ、梅田の街をぶらぶらしてしまった。ファイブの2階3階は可愛い女の子で溢れ、街の巷にはバカなツラをした若い奴らが、俺たちも含め、街を当てどもなく、波のように寄せ合い引き合い漂っている。今俺たちは、少なからずも、クラブに出なかったこと、6限目の授業に出なかったことを後悔し、罪悪感を感じながら、お互いの意思の弱さに目をつぶってごまかし、イライラの混じった気分で、何かにすがりつくような思いで喫茶店を探し、このジャズ喫茶なんとかやらというところへきて本を読み始めた。ここはかつて俺がやっぱりオンスを紛らわすためにやってきた穴蔵喫茶らしい。ちょうど今杉本の座っているところでジャズベースの音に心を揺すぶられながらゾンビーハンターを読んでいたことがあるらしい。そして今杉本は同じようにゾンビーハンターを読んでいる。きっと虚しいものを感じているに違いない。
これが青春というものであろうか、何か歯切れの悪い砂の混じったコーヒーゼリーのようほろ苦さ、微かな甘味は、あまりにも頼りなくて、自信なさそうだ。小さい頃の俺は真面目だった。良いことと悪いことしかなかった。人への当たりがキツかっただろう。しかし、決して真面目だけが良いことではないことを中学2年のとき思い知らされた。辛い一年だった。惨めだった。俺というものが大きく変わる一年だった。今の俺はあのときに90度変わった。そして高校時代に作られた。遊びを覚えた。心の遊びを。・・・堅物は面白くないのだ。しかし、それは、角が取れたということなのか、丸められたということなのだろうか。
4/5 AM2:00
鉄腕アトムが懐かしい年になりました。メンコが懐かしい年になりました。俺は小さいときウンチだった。ドッチボールが苦手で、小学校4、5年の頃初めてボールを受けられた時の嬉しさを覚えています。小さい頃はひ弱で遠足もろくについてゆけなかった。遠足の途中にぶっ倒れて、それ以上歩けなかった。あの時ぶっ倒れたところの絵を描いて金賞をもらったっけ。お弁当を持って学校へ行っても先生が俺の体を心配して遠足へ連れて行ってくれなかった時もあった。俺はお弁当を持ったまま家へ帰って家で弁当を食ったっけ。お袋がそばでそんな俺をみて寂しそうにしていた。
そんな俺も今では大学でワンゲルに入って、アルプスの山々を歩き回っている。今度は今度でまたお袋がそんな俺を心配している。おふくろっていうもんは、いつでもそんなものなのか、それとも、いつも俺が親不孝ばかりしているのか。
12/10 我が家のスターリンととロッキー
俺の親父は、自分の前が汚れているのを好まない。食事の際自分の前に汚れた鍋や布巾などがあると、俺の目の前やお袋の方へ押しやって知らん顔をしている。親父は目の前さえスッキリしていれば良いのである。また、何か仕事をしていてゴミができるとポイとどこかへ捨てる。まさにポイである。親父としては一応ゴミ箱の方へ投げているらしいのだが、いっこうに入ったためしがなく、ゴミ箱の周りには、綺麗に親父が投げたゴミが溜まっている。
しかし、お袋は黙っていない。親父の前が綺麗であってもゴミ箱の周りはそうではないのである。これに我慢できない。親父が目の前のゴミを適当に他へ移動させる。お袋がそのゴミを徹底的に処理すべきところへ処理する。お袋は、目の前が汚れているのをもちろん好まないが、家のどこかかしこが汚れるのももちろん好まない。隅から隅まで綺麗にしなければ気が済まない。お袋に関してはある笑い話がある。
ある日テレビがいかれてテレビ屋さんを呼んだ。テレビ屋さんはもちろんのこと、テレビを見るためにテレビを移動させた。ところが移動させた後に普段ではお袋の掃除のしようのない死角が出てくるわけで、少々ながらゴミが出てくる。それをみたお袋はテレビ屋さんがあっけにとられるのも知らん顔で一生懸命に大掃除を演じたのだ。
要するに親父は一国革命論者的スターリンであり、お袋は世界革命論者的トロッキーなのである。しかしながら、この小世界においても、スターリンの方が力が強く、トロッキーには目もくれず一国革命論を進めている。トロッキーの方はその後を追うようにして世界革命論を推し進めている。誠に尊敬すべきである。かくゆうむすこのおれは、親父同様スターリン的ではあるが、どちらかというと、ノータリンという感じがしないでもない。
そういえば俺はここに親父とお袋がいるのに少しの疑いも持っていない。俺はその親父とお袋のそばで17年間暮らしてきた。俺の今までの人生の全ての時間において親父とお袋は存在していた。そしてその17年間の姿が俺にとっての親父やお袋の全てであり、今まで、それ以外の親父やお袋のことを考えたこともなかった。まるで、親父やお袋は生まれた時から今みたいにシャキッとしていて大人だったみたいに感じていた。しかしそんな親父やお袋にも俺の知らない数十年の人生があり、そこにおいて今の俺のような青春の時期があった。それに気がついた俺は新たに新しい親父やおふくろを知ったような気がする。そして大いに親父たちの若き青春の姿を知りたいと思う。
9/10 日曜日 PM10:50
以上ここら辺の文は4年ほど前ふと親父とお袋を見ていて親父、お袋というものの人間をチラリと感じ出した頃の文章だ。あの頃高校で習いたてのスターリンとトロッキーの対照が妙に親父とお袋の日常の姿にダブっていたし、またちょくちょく親父たちが、自分たちの昔の若い頃のことを聞かせてくれたり「マドンナの首飾り」なんかの古い曲がかかるたびに「ああ、母さんと付き合ってた頃よくスケート場で流れていた曲だ。あの頃は50円で3本立ての映画もよく見に行ったな。いつも帰りに30円の素うどんを二人で食ったなあ」とかなんとか言ったり、しまいには、お袋が押し入れから黄色く日焼けした封筒の束を持ってきて、俺に見せたりする。何かと思うと、中村泰典様へ、山路喜久子様へ(お袋の旧姓)と描いたのや、逆のやら、要するにラブレターの山である。を引っ張り出して見せびらかせたりするので、息子の俺の方がオロオロして、ましてや彼女をこよなく求め出した俺へ刺激したりする親父たちのことを、嬉しくも思い、びっくりもし、なんかもっと聞き出して小説でも描いてやろうと書き出したわけだけど、結局そのまま後を聞き出すこともしないうちに大学生になって、親父たちのところから飛び出してきてしまった。いまだに、親父たちのラブレターをまともに一つも読んでいないのだ。親父たちと離れて暮らすようになってかれこれ3年目、何か親父たちのふけを感じる時がある。何か寂しい。いつまでも元気であっていてほしいと思っている頃、こんな手紙が届いた。
ーおやじとおふくろと行きボの詩ー
オーイ
元気でやっているかい
毎日勉強しているかい
青春を食いなくおくれよなー
P.L.さん頑張れや
気付けて行けよなー
責任重いぞー
たまには元気な声を聞かせてくれよなー
行ちゃん
元気ィー
ちゃんと食べてるー
お金あるー
下宿代払ってるー
山行き気い付けてねー
いつ帰ってくるのー
多分こう答えるだろうなー
元気 元気
だけど金はない
勉強もなかなかできんわ〜
夏合宿終わったら帰る
その時はのんびり寝たいよォー
ご馳走してー
相変わらずの同じような対話だなー
それでいいのだ それで
ともあれ元気でな
父母
行君へ
エピローグ
寂しいというものは、いったいどういう気持ちになることかなんて、自分が寂しいなと思っている時、その寂しさを紛らわすために、いったいなぜ寂しんだろう、この寂しいという気持ちは、形にしたらどういうふうに描けばいいんだろう、などと考えているうちにいつの間にか寂しいということ自体がわからなくなり、寂しくなんかなくなるはずだったのに。・・・
例えば、僕という人間は、こういう人間だなんていえないんだよね。一つにまとめることなんでできないんだ。いろんな面を持っている。もちろん、それは、誰にでも言えることだと思うけど、人間というのは、その日その日で別人なんだ。
クネクネと枝を張った大木のようなもので、一本の幹はあるんだけど、時とともにいっぱい枝分かれをしてしまって、ある時は北の枝を一生懸命はっていると思ったら、いつの間にか、大切な南の枝を枯らしてしまったりしながら、まっすぐに一本に伸びてはいないんだ。
結局箸にも棒にもなりはしない!
でも箸や棒じゃあ味気ないもんな!
MY ESSAY 非売品
1974年6月14日〜1978年9月10日
著作者:NAPLIN CHAKAMIRE
発行者:怪人案単多裸亜
発行所:シルバーランドサファイアの間 穴蔵喫茶なっぷりん
製本所:同上
しおり
Yukiの行きは雪の勇気
青春の門を、トントンと叩いたら「自分で開けてください」という返事が返ってきた。私は素直に「はい」と言って門を押した。でも開かない。引いても開かない。なぜなら門には鍵がかかっていたのだ。私は「ひどいじゃないですか鍵なんかかけてすぐに開けてください」というと。「自分で開けてください」という返事しか戻ってこない。私はこの時から門の鍵を探して旅に出たのです。
今思うのですが、あの門は本当は鍵なんて掛かってなかったんじゃないでしょうか、私はまだ鍵が見つからないんですよ。でも、もう門の中にいるような気がするんです。いえ、そんな気がちょっとしただけですけどね・・・
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