異邦人
- Napple
- 19 時間前
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2025/4/4

男は、いつものように喫茶店「1.9Lの魔法びん」の扉を押した。 木製のドアベルが控えめな音を立てる。カウンターの奥では、マスターがいつものようにコーヒーを淹れている。壁の柱時計は午後三時を示し、店内にはジャズの調べが静かに流れていた。常連たちはいつもの席に座り、それぞれがそれぞれの時間を過ごしている。しかし、男はふとした違和感を覚えた。 自分は、ここにいていいのだろうか。この店には何年も通っている。誰もが彼を常連として扱い、顔なじみの客たちも気さくに声をかけてくれる。それなのに、今日の空気は、まるで自分だけが異邦人であるかのように感じられる。
「いらっしゃい」
マスターがいつものように声をかける。その響きが、なぜか遠くで鳴っているように思えた。男は黙って席に着き、注文することもなくただカウンターの木目を見つめる。すると、不意にマスターが言った。
「お前さん、最近、ちょっと変だな」
顔を上げると、マスターがじっとこちらを見ていた。
「変……ですか?」
「なんというか、魂がここにいないような感じがするんだ」
男は考え込んだ。確かに、ここ最近、自分はどこか違う場所にいるような感覚を抱いていた。自分の足元が本当にこの床の上にあるのか、手がこのカウンターに触れているのか、それすら確かめたくなるほどに。
「お前さん、自分がどこにいるかわからなくなったことはあるか?」
「ええ……昔はよくありました」
男は若い頃を思い出す。大学のキャンパスを歩いていても、自分が本当にそこにいるのか不確かだった。会社に勤めても、自分の居場所が決まったはずなのに、どこか馴染めない気がしていた。何かがいつも、ほんのわずかにズレていた。
「でも、ここは何年も通ってる場所ですよ」
「場所の問題じゃないのさ」
マスターはゆっくりとコーヒーを淹れながら言った。
「人は、自分のためだけに生きているとき、世界に馴染めなくなることがある」
「自分のためだけに……?」
「お前さん、最近、誰かのために何かしたか?」
男は言葉を失った。確かに、彼は最近、人と深く関わることを避けるようになっていた。仕事を辞め、家で静かに過ごし、最低限の人付き合いだけをこなす。喫茶店に来るのも、ただコーヒーを飲むためで、誰かと何かを共有するためではなかった。
「人と関わらないことに安心していたんだろう?」
マスターは穏やかに言った。
「でもな、それが長く続くと、人はこの世界から浮いてしまうもんさ」
男はカウンターに視線を落とした。 たしかに、ここに座っているはずなのに、自分がこの店の一部ではないように感じていた。
「人はな、自分を自分のためだけに使っていると、どこにも属せなくなる。だから、誰かのために動くんだ。そうすると、不思議とこの世界に馴染んでくる」
マスターはそう言って、男の前に一杯のコーヒーを置いた。
「誰かのために?」
「そうさ。まずは、小さなことでいい。たとえば、このコーヒーを誰かに届けてみるとか」
マスターはカウンターの向こうに座る初老の男を顎で示した。
「彼の分を、持っていってやれ」
男は戸惑いながらも、カウンター越しにコーヒーを受け取り、初老の男のもとへと運んだ。
「……どうぞ」
初老の男は驚いたように顔を上げ、それから柔らかく微笑んだ。
「ありがとう」
その一言が、妙に心に響いた。 カウンターに戻ると、マスターが静かに頷いていた。
「少し、世界が近くなったか?」
男は、ゆっくりと息を吐いた。
「……ええ、少しだけ」
「異邦人」了
あとがき
夢を見た。大学のキャンパスを彷徨いていた。授業を受けようとしているのか、それともただ歩いているだけなのか、自分でもはっきりしない。ただ、ある感覚が蘇る。
ここは自分のいる場所なのだろうか。そんな思いがふと胸をよぎる。いわば異邦人感覚とでもいうものが、付き纏っていた。この感覚は若い頃によく味わったものだ。どこかに所属することで、しばし安堵を覚える。入学し、教室が決まり、席が決まることで、自分の居場所が定まったような気がする。しかし、それは与えられたものであり、自分が勝ち取った場所ではなかった。ただ、当時はそんなことを疑問に思うこともなかった。
けれど、受験して入学した学校や、就職した会社は違う。自分が望み、努力して得た場所だった。なのに、本当にここにいていいのだろうかという得体の知れない感情が湧くことがあった。ふと、自動車で走りながら、自分はここを走っていていいのだろうかと感じたことを思い出す。免許を取得し、交通法規に従っているのに、それでもそう思うのだ。その感覚は何だったのだろう。親しい友人たちに囲まれていてさえ、ときおり訪れる異邦人感覚。
最近、その感覚はまるで絶滅したかのように消えていた。ところが、夢の中で大学のキャンパスを彷徨きながら、久しぶりにそれを感じた。キャンパスは広く、友人の顔はどこにも見当たらない。確かにそこは自分が所属する大学だった。それでも、心許なさがあった。不安とまではいかないが、どこか居心地の悪さを覚える。そして、それは初めてのものではなく、かつて何度も味わったことのある懐かしい感覚だった。
老齢に入り、年老いた母と暮らすようになった。家から出ることも少なくなり、外界との接触も減った。今や私の世界は、自分の内側に閉じたインナースペースのようなものだ。誰かが不躾に入り込むこともなければ、私自身が誰かの世界に踏み込むこともない。ここに異邦人感覚が生じることはあり得ない。ということは、人と関わる場面において、たとえ自分の席が確立されていたとしても、何かしらの不安定な要素を異邦人感覚として認識していたのかもしれない。
人と関わることこそ、この世に生まれた目的かもしれないと思うようになった。にもかかわらず、人と関わらないことに安堵を覚える自分に、少し困惑する。なぜなら、「自分を自分のために使わないこと」が、この世の秘密を解き明かす鍵だと感じているからだ。家から出ずとも、母のために自分を使うことで、この条件を満たそうとしている部分はある。だが、それで十分なのか。
異邦人感覚とこの思いのつながりに、何か興味深いものを感じ始めている。もう少し掘り下げられそうな気がするのだが、今のところ、これ以上の言葉が見つからない。
そんな思いから紡がれた物語
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