2025/2/17
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魔法びんの夜
喫茶店「1.9Lの魔法びん」の片隅で、無口な男が一冊の古びたノートを開いていた。カウンター越しにマスターが珈琲を淹れながら、ちらりとそのページをのぞく。
「おや、また難しそうな話だね」
男は小さくうなずくと、ノートを指で軽く叩いた。そこにはこう書かれていた。
「光子箱と時間のカラクリ」
「アインシュタインとボーアの論争を知ってるか?」
「光子箱の話か?」
マスターが答えると、男は少し目を細めた。
「あんたが好きそうな話に仕立て直してみようか?」
王と賢者の賭け
昔々、とある王国に聡明な王がいた。王は「未来を完全に知ることができる道具」を求め、ある賢者に相談した。
「時を見通す鏡を作れるか?」
賢者は首を振った。
「時を知るには、世界のエネルギーの流れを完全に測らねばなりません。しかし、それは不可能なのです」
王は納得せず、ある賭けを提案した。
「では、もしそなたが”完全な時の測定”ができないことを証明できたら、褒美をやろう。しかし、もしできなければ……」
賢者は静かにうなずき、「光の箱」という装置を作ることにした。
光の箱のカラクリ
賢者が作ったのは、魔法の箱だった。その箱には光の粒が閉じ込められ、ある瞬間に一つだけ放出される。箱の下には魔法の天秤があり、光の粒が出た瞬間に重さがわずかに変わる仕掛けになっていた。
王は箱を見て言った。
「これがどうした? これなら光の放たれる瞬間を正確に知ることができるではないか」
賢者は微笑んだ。
「では、箱の重さを測ってみてください。光が出たら、ほんのわずかに軽くなりますね」
王は天秤をのぞき込むと、確かに針がわずかに動いた。しかし、その瞬間、奇妙なことが起こった。
「……なぜだ? 針が揺らいでいる」
賢者は説明した。
「箱は、光が放たれたことで重力の影響を受け、ほんのわずかに上に浮きました。その結果、時間の流れが微妙に変化してしまったのです」
王は驚いた。
「つまり……光がいつ出たかを測ろうとすると、時間そのものが狂うというのか?」
賢者はうなずいた。
「そうです。時を知るためにはエネルギーを測らねばなりません。しかし、エネルギーを測ろうとすると、時の流れがわずかに変わり、正確には測れなくなる。未来を完全に知ることは、原理的に不可能なのです」
王はしばらく沈黙し、やがて賢者の手を取った。
「そなたの勝ちだ。この知恵にふさわしい褒美を取らせよう」
喫茶店の夜に
無口な男はノートを閉じ、マスターを見た。
「つまり、光子箱のカラクリは、未来を知ることの限界を示している」
マスターはゆっくりとうなずきながら、カップを磨いた。
「面白い話だね。時間とエネルギーの測定が、お互いに邪魔しあう……まるで、この世のカラクリそのものみたいだ」
男は答えなかったが、マスターの言葉に満足したように、珈琲を一口飲んだ。
喫茶店の時計が、ゆっくりと時を刻む音だけが響いていた。
「光子箱」了
あとがき
アインシュタインとボーアの間で、不確定性関係(エネルギーと時間の関係)が成り立つかどうかについて論争があった。
アインシュタインは「光子箱」という思考実験を考えた。箱の中に光子を閉じ込め、特定の時間に光子を放出することで、そのエネルギーを正確に測定できると主張した。これは「エネルギーと時間の不確定性関係を破れる」という主張だった。
しかし、ボーアは一般相対性理論を使って反論した。光子が放出されると、箱の質量がわずかに減る。その結果、箱は重力の影響で少し上昇し、時間の進み方が変わる(重力場では高さによって時間の流れが変わる)。すると、時間の測定が正確にできなくなるため、エネルギーと時間の不確定性関係は破られないと主張した。
ただし、このボーアの反論には疑問が残る。彼の議論は「箱の質量測定にかかる時間の不確定性」に注目しているが、アインシュタインが問題にした「光子の放出タイミングの不確定性」とは別の話になっている。また、そもそも量子力学の枠組みでは「時間」は明確な物理量ではなく、時間とエネルギーの不確定性関係は位置と運動量の関係ほど自明ではない。
つまり、ボーアの議論はアインシュタインの思考実験を回避することには成功したものの、エネルギーと時間の不確定性関係を決定的に証明したとは言えない、という結論になる。
この論争から生まれた物語。雄弁な無口な男が登場することとなった。
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