2025/2/17

音に満ちた街がある。朝は鳥のさえずりと風のざわめき、昼は市場の喧騒と靴音、夜は遠くの波の響きと、灯りがともる音さえ聞こえる。時間の流れは曖昧で、音が記憶を刻む場所。
◆
少年は名前を忘れていた。言葉も失い、何も話せなかった。
ただ、手にしたカホンだけが、彼の思いを音にしてくれる。
最初は戸惑った。けれど、叩けば響く。それだけで十分だった。
「ダン」と叩くと、胸の奥にあった感情が形になった気がした。
「タン」と軽く触れると、心のどこかに残っていた景色が浮かび上がるようだった。
街の人々は不思議そうに見つめたが、誰も少年を邪魔しなかった。むしろ、耳を澄ませた。
そして、いつの間にか彼の前に現れる者たちがいた。
◆
最初に現れたのは無口な男だった。
少年と同じく多くを語らない。だが、彼はカリンバを奏でた。
透明な音が、少年のカホンのリズムに寄り添う。
カホンの響きが「問い」なら、カリンバの音色は「答え」のようだった。
すると、ふと景色が揺らぎ、少年は何かを思い出しそうになる——しかし、掴めない。
◆
次に現れたのは、怪人——案単多裸亜(あんたんたらあ)。
「あんたんたらあ!お前の音には、まだ何もない!」
そう言って奇妙に笑う。
「まだ何もない」——それは、無ではなく、無限だった。
「音は思いだ。だが、思いは時に嘘をつく。お前の音はどこへ行く?」
そう言い残し、ふわりと消えた。
◆
少年は道を歩き続けた。音に導かれるように。
辿り着いたのは、ワーランブールと呼ばれる場所だった。
そこでは、音が生まれ、失われ、巡るという。
そこにいたのは、長い管のような楽器を吹く者——ディジュリドゥの奏者だった。
「お前の音を、風に変えよう」
彼の奏でる音は大地の響き。少年のカホンがそれに応える。
その瞬間、少年の記憶が飛翔する。
◆
そこにモシカモシカがいた。
まるで最初からいたかのように。
鴨の頭に鹿の角を持つ、奇妙な存在。
彼は何も言わない。ただ、少年の音を聞いていた。
すると、不思議なことが起こった。
音が形になり、言葉になった。
少年の手は、次第に言葉のリズムを刻み始める。
「——」
気づけば、少年の口から、音がこぼれた。
◆
言葉を話すのではなく、音で語る。
それがこの街の本当の在り方だったのかもしれない。
少年のカホンは、今日も街のどこかで響いている。
「カホン」了
あとがき
カホンを言葉を話すように叩けるような気がした。そんな思いから生まれた物語。
Comments