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執筆者の写真: NappleNapple

更新日:2024年12月21日

2024/12/20

2018年

5月22日

 母は庭で花を愛でながら鼻歌を歌っていた。「バーラが咲いた、バーラが咲いた……」と、とても楽しそうだった。その様子を見ると私まで嬉しくなる。

 

2020年

11月10日(米寿)

 母の88歳の誕生日を迎えた。母の人生の3分の2に私が関わり、私の人生全てに母がいることに改めて気づく。当たり前のようで、何とも感慨深い。感謝の気持ちを込めてお布団を新調した。お母さん、米寿おめでとう。悔いのない人生を全うしてほしい。

 

2021年

1月29日(母の日記より)

「赤いゼラニュームの花、春になったらまたいっぱい咲いてくれるかな。楽しみにしてるよ。」


2月3日(母の日記より)

「くるみちゃんと仲良く一緒の部屋で暮らして、ワンちゃんの可愛さをしみじみ感じることができました。」

 

2022年

1月1日(元旦)

 母はいつも周囲のことに気づき、「ご苦労さん」と労ってくれる。その一言が私には何よりも嬉しく、また頑張ろうと思える。母は「すまない」と言うけれど、ただ一緒にのんびり暮らしているだけなので、そんなことを気にしなくていいのにと思う。それでも、母はその言葉を頼りに日々を過ごしているのだ。


1月24日

 母はたまに寝ぼけて叫ぶことがある。浜松に越してきた頃、進みたくても川が行く手を阻み、そこに怪獣が現れる夢を見て、思わず叫んだそうだ。最近また、大勢の殺し屋に囲まれる夢を見て叫んだ。どうやら時代劇の影響らしい。


10月23日

 母が「そらじろうのぬいぐるみが欲しい」とぽつりと言った。前はふなっしーが好きだったが、最近はそらじろうの雨ガッパ姿が気に入っているらしい。誕生日当日にそらじろうのぬいぐるみを渡したい。渡す日を待つのが楽しみだ。


11月10日(母の90歳の誕生日)

 母は90歳を迎えた。今年は記念にそらじろうのぬいぐるみとお雛様を贈った。

 

2023年

3月28日

 母と些細なことで喧嘩をしてしまった。翌日になり謝ったが、母が元気がないように感じたのは「くるみ」に夜眠らせてもらえなかったためだった。母との喧嘩を経て、自分が母の老いに怯えていることに気づいた。


4月13日

 母の思い出話。子供の頃、父は紙芝居を見るのが好きで、少し余裕のあるときにはお小遣いで楽しんでいた。母は住宅地に住んでおり、紙芝居を見る機会は少なかったが、兄姉が買った本を読んだり、学校で友人に話したりするのが好きだった。学芸会では台本を書くほどだったという。


4月10日

 母と暮らして8年が経つ。母の浜松での生活は、不安や慣れないことが多かったようだ。それでも少しずつ馴染み、くるみにも愛情を注いでいる。IHに慣れた母はガスコンロを怖がるようになったが、それもまた時の流れを感じさせる。


5月31日

 母の宝物は、父からの手紙。


11月26日 母

 母がうなされている。夢の中で戦っているようだ。


 2016年10月23日に越してきてから7年。久しぶりに一緒に暮らし始めた母は、時折寝言を言う。時には叫び声を上げ、怖い夢を見るらしい。住み慣れた家を離れた寂しさが、心のどこかにあるのかもしれない。ほとんど出歩くこともなく、たまに出かけても自分の足で歩き回ることはないから、周りの地理も飲み込めないのだろう。見知った人も近所にはもういない。親戚も少しずつ数を減らしてしまった。何もないと言葉では言うけれど、心の奥底には不安があるに違いない。


 ただ、それだけではないのだろう。最近の母は、夢の中で戦っているのだ。悪者が来ては追い払うという。時代劇チャンネルの影響かもしれない。母は一日の大半をテレビの前で過ごし、時代劇を飽きずに見ている。時代劇には悪党がつきもので、物語の最後には正義の味方が悪を討つのだけれど、それまでには理不尽なほどに悪党がのさばる。ニュースも母の心に侵入する。毎日流れる事件、戦争、病気、殺人――そういったものが夢の中で形を変え、母を戦わせるのだろうか。布団の中で手が動き、足が布団を蹴る。


12月2日 母

 今日の母は寝言を言いながら笑っていた。何かに向かって手を振っている。いい夢を見ているのだろうか。起こさないようにそっとしておいた。しばらくして母が起きてきたので、「いい夢でしたか」と聞いてみた。母は笑いながら言う。「とんでもない、変な夢でね。犯罪に巻き込まれて、一生懸命違うって説明してたんだよ」それを聞いて少し後悔した。やっぱり起こしてあげたほうがよかっただろうか。


12月7日 母

 自分でバリカンを当てた翌日、母は言った。「頭がさっぱりしたね」掃除をすると「きれいになったね」と言い、花に水をやると「お水をありがとう」と言う。母はいつも何気ないことに気がついてくれる。私のことをちゃんと見ていてくれているのだ。母の一言に、これまで何度背中を押されてきたことだろう。「ありがとう、お母さん」


 

2024年

4月17日 母の思い出

 母と父は、2月にお見合いをし、11月4日に結婚した。母の話によると、父はデートのすっぽかしが三度あったという。一度目は雪の日。約束の場所に父は現れず、夕方になってようやく母を訪れ、言い訳をした。二度目は雨の日。またしても待ち合わせに現れなかった。三度目には電報が届いた。「張り込みのため、急遽行けなくなりました」。


5月12日 母の日

 今年も母の日がやってきた。毎年何かしら用意して、部屋の隅に隠しておく。そしてそれを母に渡すまでの時間が、私は何より楽しい。母の日にはパンを焼こうと思う。


12月11日 母の寝言

 母は寝言をよく言う。特に怖い夢を見ると、大声で叫ぶことがある。今日はお昼と夕方に悲鳴が上がり、慌てて起こしに行った。「お母さん、夢だよ」と声をかけると、母は照れたように笑った。お昼は「ライオンに食われそうになってたのよ。ああ、怖かった」のだそうだ。夕方はこう言った。「フランス旅行をしていて、乗ったタクシーの運転手が途中で死んじゃったのよ。それでも死んだくせに、自分の実家まで運転するの。申し訳なくて、私、泣いてたんだよ」以前は道に迷う夢や、もののけに囲まれて往生する夢を見ることが多かった。そのたびに悲鳴を上げていたけれど、最近は少なくなっていた。迷子になる夢は見なくなったのだろう。この家になれたのだと思うのだが、今日は二度も大きな声を聞いた。


12月16日 母の思い出

 新婚時代、母と父の新居はまだ建築中だった。名古屋市北区八坪町。今では清水町に吸収され、あの頃の地名はもうない。大家さんの家に新婚道具を置き、新婚旅行へ出かけた。帰ってきてもガスも水道もまだ通っておらず、押し入れは荒壁のまま。母は自分で紙を貼り、布団をしまえるようにした。水道が引かれるまで、炊事は大家さんの家でさせてもらった。電気が通ったかと思えば、お隣さんと共同で使うことになり、「そちらの方が電気を使う」と揉めることもあったという。


やがて、母は実家の離れへと引っ越し、そこで私が生まれたのだった。


 二歳半の頃、父の転勤で福井へ引っ越した。初めての土地、父は仕事で不在がちだったから、母は心細かったのだろう。官舎は玄関脇に三畳の客間、奥には四畳半と六畳の部屋、それに三畳のお勝手と風呂、便所もついた立派な造りだった。広い庭では母が菊やケイトウ、チューリップなど、さまざまな花を育てた。おかげで、家は「お花の咲いている家」として知られるようになった。


 豪雪の年、朝起きると窓の外は雪に閉ざされ、玄関まで凍りついていた。お湯をかけて氷を溶かし、スコップでトンネルを掘って外に出た。子供の私はその雪で階段を作り、屋根に上がってはジャンプした。母はそのたび、肝を冷やしたそうだ。


 聞かん坊だった私のことだから、よく心配をかけた。泥玉を目に食らって帰ってきたり、転んで膝をすりむいたり、池にはまったり。ご近所の人とふらりと銭湯に出かけてしまうこともあった。幼い私は一人でどこへでも歩いて行ってしまうので、母は私の腰に紐を結んで箪笥に繋ぎ留めていたというが、私にはまるで覚えがない。


 百貨店に行けば姿が消える。決まって見つかるのはおもちゃ売り場だった。海へ行った時も、母が着替えをしている隙に遠くまで歩いてしまい、家族や周囲の人々が大騒ぎで探し回った。


 旅行のバスでは、私は飴を配って歩いた。だが少しすると今度は「回収です」と言って取り上げるので、誰も飴を食べられなかった。浅草駅ではぐれた時ばかりは、普段泰然としていた父も慌てたらしい。


 母は昔話をするたび、どこか困ったような、それでいて少し楽しそうな顔をするのだった。


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