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執筆者の写真: NappleNapple

更新日:2月1日

2025/1/27

 棚に並んだ器たちの中に、それはいた。小振りの小鉢。すっきりとした丸みを帯びた形と、光を受けて淡い虹色に輝く縁が特徴的だった。彼女――小鉢は、器は、割れるために生まれる。どんなに丁寧に扱われても、いつか訪れるその日を避けることはできない。それが彼女たちの定めだ。そんなふうに思っていた。


 毎日、棚から出されては料理を受け止める小鉢。朝のヨーグルト、昼のサラダ、夜には冷ややっこ。ある日、彼女はふと思った。「私は何のために存在しているのだろう?」料理を盛る、それを人間が食べる。それだけのために自分が生まれ、そして消えるなんて、なんだか寂しい。


ある日、事件は突然やってきた。


 乾いた手が彼女を掴んだ瞬間、小さな違和感が走った。普段よりも少し力が弱い――そう思った次の瞬間、彼女の身体は宙を舞っていた。スローモーションのように感じられたその瞬間、小鉢はキッチンの床に向かって落下していった。


「パリン」


 床に触れると同時に、彼女の体は無数の破片に砕け散った。


 乾いた手の持ち主は思わず「あっ」と声を漏らし、キッチンにしゃがみ込んだ。破片と飛び散った料理をぼんやりと見つめている。彼の表情にはショックと疲労、そしてどこか申し訳なさが滲んでいた。


「食べ損なっちゃったな……代わりの器、あったかな……」


 そんなことをぼそりと呟きながらも、やがて「片付けないと」と動き出した。破片を丁寧に箒で集め、掃除機で細かな欠片を吸い取る。まるで彼の手に抱かれていた時間すら消し去るかのように。


 小鉢は、砕け散る瞬間に一つだけ理解した。

「私は、人間の誰かに『美味しい』と感じてもらうために生まれたのだ」


 その日の夜、彼は静かに珈琲を飲んでいた。何か思案している様子で視線を彷徨わせている。棚に並ぶ他の器たちに目をやり、ぽつりと呟いた。


「金継ぎ、やってみようかな」


 その言葉を聞いた器たちは驚いた。壊れたものが再び戻ってくるなど滅多にない話だ。彼女の破片を捨てる気になれなかった彼は、欠片を一つ一つ紙に包んで箱に入れた。そして翌朝、金継ぎの道具を注文した。


「自分で、できるかな?」


 数日後、道具が届いた。


 金継ぎの手順は想像以上に緻密で、忍耐を要する作業だった。 欠けた部分に透漆を薄く塗り、乾燥を待つ。次の日、ごはん粒を練って透漆や木粉と混ぜ、「刻苧漆」を作る。竹ヘラで丁寧に欠けた部分を埋め、形を整えると、1週間かけて乾燥させた。作業は地味だが、不思議と心が落ち着く。徐々に形を取り戻していく器。


 砥石で余分な部分を削り、防水のために弁柄漆を塗る。そして、仕上げには金粉を真綿でそっとまぶす。輝きが器に命を吹き込むようだった。全工程を終えるのに2週間以上かかったが、その時間は驚くほど豊かだった。


 完成した器に料理を盛り、彼は食卓でじっとそれを眺めた。割れた跡が金色の線となり、以前より美しく感じられる。「壊れたからこそ、こうして蘇ったのかもしれないな」彼はそう思いながら、器を手に微笑んだ。


 それから彼は以前よりも器を丁寧に扱うようになり、時々小鉢を眺めては「綺麗だな」と微笑む。その微笑みが、彼女にとっては何よりも幸せだった。再び棚に戻された彼女は、誇らしげだった。「割れるために生まれる」と思っていた自分の運命が、こうして新しい形で続いていくのだと知ったからだ。



 

あとがき


 器を割ってしまった。それはささやかなことだけど十分にショックだった。片付けをしてしばらくすると、その時の思いを綴ってみようと思い立った。それはどちらかというと辛い出来事だったけれど、気がつくと、こんな素敵な物語が生まれる発端だった。

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