日記に綴られた読書の記録2。読み漁る時もあれば、全く読まない時期もあった。
1996年
本を読んでいないようだ。
1997年
6/11
何気なく読み始めた本が、(スタートレック6・「未知の世界」:従来敵対していた世界宇宙連邦とクリンゴン帝国が和平を結ぶ物語)今の状況を小説の中で語っている。多くの生命が生きていくためには何らかのかかわり合いが必要だ。そのかかわり合い方が時として、いろんな問題を提起してくる・・・。
電話がかかってくる。何だかしばらく連絡をする気になれない。今日はすがすがしい一日だ。少しのんびりしよう・・・。
「生きるべきか死ぬべきかそれが問題だ」(ハムレット・第三幕第一場)
「必ずと言っていいほど改革は挫折する」(スタートレック・未知の世界164P)
これは小説の中で語られた台詞です。そして結果、皆生きる道を選び・挫折することなく改革の糸口を掴んだのでした。
8/19
「ハイペリオン」を読んでいる。栄華を誇ったヘゲモニーが、一瞬にして、アウスターの襲撃を受け滅びに瀕しようとしている。たとえようもなく困難な局面を迎えたヘゲモニーの指導者達。彼らはもうやめたと逃げ去ることは許されない。なぜならその破局を迎えたのは彼らの政策にこそ原因があったからだ。しかしここで僕は思った。僕がこの局面に立たされたとき、果たして逃げ出さないで立ち向かうことができるだろうかと。今回代表支部長の立場をあっさりと放り出してしまった僕だ。人類救済という未曾有の状況にいて僕は、投げ出してしまった。
1998年
4/23
人は好奇心の固まりだ。知ることは喜びだ。人は苦労をしたくない、だから本を読んで疑似体験をよくする。だから現代はバーチャルリアリティーの盛んな時代なんだ。しかし法則は、天は言う。学びに来たのでも知りに来たのでもない、やりに来たのだ成りに来たのだと。
5/7
「小説の楽しみ」
小説の楽しみは、一つに読んでいる途中の楽しみがある。
次はどうなるのだろうと言うわくわくする気分
小説の中に現れる、ああそうだよなと共感させられる一説に出会えたうれしさ
早く読み終えてみたい、全体を眺めてみたい渇望
終わりに近づくに従い、これで終わってしまうのかという寂しさ
自分の中に育んできたイメージと一致していくときの歓び
もしそういう方向に向かわないときはつまらなくなり
もし自分のイメージをもっと超えているときはすばらしい感動
意外性に対する感動がわき上がる
疑似体験の興奮
苦しいことをせずに苦しいことや困難なこととに立ち向かい
それを克服したような錯覚による満足感。
そしてもう一つに読み終えてからの楽しみがある。
全体がわかった上での、ストーリー展開の追体験
見落としていたことの再発見
何度でも思い出すことのできる気に入った一説
読み切った満足感
次の物語への期待
自分なりの次の展開の想像
自分だったらあの時どうするだろうと言う想像
こんな所だろうか。小説はやはり自分のこととして読めるときが嬉しいし、そこになぞがある方が楽しい。そして人生の中で支えていたことに光が当てられたとき、現実に戻った自分に光が、自信が、やる気が湧いてくるものがすばらしい。
5/14
「小説の怖さ」
小説を読むと必ずと言っていいほど、何らかの刺激を受ける。その刺激は性的なもの、欲望的なものが多い。読まなければそんな想像などする事もなかったことを想像し始める。
実はそんな想像がしたいから読むのだ。しかし今や、そのような想像は多くが苦しみとなって僕を襲うことがある。そういうたぐいのことは全てサタンだというわけだ。どうしてこうなってしまったのだろう。かつては単純にそれを楽しんでいたのに。
「どうなっているのだろう」
天と自分。わかっている。でもどうしたんだろう。なんだか全然観いが源いてこない。源くと言うことがどう言うことかわかっている。どんなに頭で考えようとも、肚の中で思っていることが違うとき、実は源いている観いというのがその肚の中の観いなんだ。これはどうしようもないものだ。正当化しようとしたり。ごまかそうとしたり。何とか成るだろうとほうって置いたり。色々あがくけれどどうしようもない。その解決の糸口こそ人に観いを向けることだというのもわかっているのだが、それができないまま悶々とする。
1999年
1/8
スターウオーズは、三部作が上映されてからもう20年近くが経っている、その間に約18年間の出来事が小説となって、スターウオーズ世界を作り上げてきた。もちろん主人公はルーク・ハン・レイア・ウーキー・ランドらだ。初代の英雄達はすべからく生きていて、彼らは幾度も危機を迎え切り抜けてきた。その活劇が物語をおもしろくするのだが・・・。例え彼らが死んだとしても新共和国は存続するだろうし、新たな物語が、時代が生まれる。ただ小説を読む側は主人公が死んでしまってはおもしろくないから、生き続け、彼らが死んでしまっては共和国すら存続し得ないように感じてしまう。でも誰が死んでも、新たな時代は始まるのだ・・・。
ようやく読み始めたスターウオーズの「嵐の予兆」は、初めは何だか入り込めないものだった。ところが段々状況が飲み込めてくる、ルークが逃げ出してしまう。もちろん今の僕とは状況は異なるし思っていることも異なるけれど、雰囲気は同じだ。今、僕が思っていることを代弁してくれているようなところがある。たいていの場合、読んで行くに従ってずれていってしまうのだけれど、今の所、そうなんだなあと言う感じだ。年末に岡崎図書館で借りて読んだループも、バーチャルな現実感を感じていた矢先の時に、その思いを示唆するような内容だった。不思議と、読む本、出会う本が、今の自分に必要なことを知らせてくれる。だから僕も誰かにとってそう思える本を書きたいと思っている。
1/12
「人々は、他人の失敗ではなく、成功を恐れている。」スターウオーズ偽りの盾下巻モン・モスマの言った言葉をレイアが回想した言葉を、現在の僕に置き換えた内容。
1/14
小説を読みたいのだ。でも一区切り付くと別のことがしたくなる。ただずっと小説を読み続けることができない。今回の小説はよくできている。マイケル・P・キュービー=マクドウエル 区切りが細かく、テンポがいい。これは参考になるね。
1/15
今回のスターウオーズは、まず意味深に旧帝国艦隊がイエベッサの民に虐殺され乗っ取られるところから始まった。そしてルークの逃避行がフォースと異なるカレントなる力に引かれて行く。チューバッカは息子の成人式に久しぶりにキャシウィークへファルコンで戻っている。ランドは退屈しのぎに謎の放浪船探索に3POとR2とクラウドシティの執政官となったロボットを誘って深宇宙へ出かけている。とまあこんな感じで、登場人物が皆バラバラで動いていてそれぞれに謎があってそれぞれの物語として進行していく。そして物語の軸はレイアが迎えるイエベッサとの開戦、ハンの救出、国家元首罷免へと進んでいく。どこでどのようにルーク・ランド・チューバッカらと関わっていくのかがなかなか見えない状況で見事に進んでいく。またここの物語もテンポがよくて。短いセンテンスで快調に引き込んで行く。3部作が見事に一つの壮大な物語を織りなしている。若干ルークとレイアが分別臭くて暗いのが読んでいて辛いところだ。
そして読み終えた。読み終えてみるとあっけないものだ。期待させるものが大きいほどに幕開けはあっけなかった。
1/19
初めて浜松市の図書館の利用者カードを作った。3冊本を借りた。「マッキントシュ物語」と「家電製品にみる暮らしの戦後史」「ネイチャー・ワークス」返却日は2月3日。アップル上下巻を検索すると、北図書館にはないが、浜松市内9カ所の内3カ所に蔵書しており、2カ所は貸し出し中だが、1箇所はあると言うことで、二日後に北図書館で取り寄せてくれるそうだ。なんと素晴らしい。9カ所も図書館があるのだ。一度全館回って内容を比べてみよう。
ところで、本屋はわくわくするのだが、どうしてかあまり図書館でわくわくしないのに気が付いた。その並びや華やかさがどうもわびしさらしい。確かに本が沢山あるのだが、何だか古びていて本自体の魅力に欠けるとでも言うか。もちろん本屋の本は魅力があって当然なのだけれども、どうしてこうも図書館に列んだとたんに魅力があせてしまうのだろう。昔学校の図書館が好きだったような記憶がある。でも、あまり借りなかったよな。本屋は本当に魅力が一杯でわくわくするのになあ。今日は一日雨だった。
1/28
ようやく「ブレードランナー3」を読み終えようとしている。とは言っても後30ページほど残ってはいるが。随分読むのに時間がかかった。とことん暗くて辛い物語だった。300ページを読んでもいまだにストーリーが見えない。どこか今の僕を示唆するようなところもある。おもしろくないどころか、せっかくのあの「ブレードランナー」のイメージをどんどん壊していく。そんな物語読まなければいいのに、取り合えず読んでみようと読んでいる。だからこんなに時間がかかったのだ。
そして夜8時、読み終えた。サラはレプリカントの間に生まれた子供で双子だった・・・。まあよそうもしなかった結末だった。そのサラが自殺を遂げ、双子の妹がまだ10歳の年齢でデッカードのもとに残った。物語はまだ続きそうだ。でもおもしろくない物語だった。
2/11
ジム・カールトンの「アップル」上下巻を読むのは苦痛だった。大好きだったアップルという会社の、どうしようもないグロテスクな部分ばかりが取材してあったからだ。何だかアップルに嫌気が差してしまいそうな内容だった。
スティーブ・ジョブズが興したアップルは、ジョブズが招いたジョン・スカリーに取って変わられた。そのスカリーもジャン・ルイ・ガセーにとって変わられ、ガセーもマイケル・スピンドラーに変わられた。そしてスピンドラーもギル・アメリオに変わった。かつてビッグ・ブルーとあだ名してIBMに敵対したアップルは、IBMと共同でパワー・PCを開発し、パワー・PCマックを作った。そのパワー・PCチップも今やG3チップとして生まれ変わった。その動作速度は、ウインテルマシンを遥かにしのぐ驚異のマシーンだ。何よりもの変化はアップルのロだ。レインボーカラーからモノトーンのアップルマークへ変貌した。スタイルも目を疑いたくなるようなスケルトンモデルへと変身した。今やアップルは、僕の知っているアップルではないのかも知れない。
アップルは魅力的な製品を出し続けていたけれども。その背後では、幾度もIBMや幾多の企業に身売りをすべく交渉をしていた。あるいは、自社を二分する計画を立て。OS専門の会社はサンと協力してハイエンドからローエンドのマシーンを提供し。ハード部門はマックマシーンとウインテルマシーンを生産する事まで計画していた。僕がこの本を読んでいていたたまれないのは、アップルの魅力はカケラも読みとることができず、裏切られたような気分になるからだろうか・・・。
2/15
アップルを読み終える。正直言って驚いている。アップルには今ジョブズがいるんだ。iMacはジョブズが作ったんだ。ヤッホー・・・。一種の興奮状態だな。新しいアップルの製品に何となく今までと違う何かを感じていたのは間違いなかった。何となくジョブズが戻ってきた気配も感じていた。もしかするとあのモノトーンのスケルトンがジョブズのものなんじゃーないかなと初めは思ったものだった。でも本書アップルを読み進むうちに、その歴史がつまびらかになるにしたがい、幻滅し、もう僕の知っているアップルではないアップルになってしまったのだと思ってしまった。でもその最後の最後に、ジョブズは劇的に復帰してきたのだった。そして本書の本分ではなく、また著者のものでもない、訳者あとがきを持ってようやく僕の溜飲は収まった。ジョブズとゲイツがまさに今日のパソコンを築き上げた立役者だった。またあのビル・アトキンソンが作ったハイパーカードが今日のブラウザーの原型だとは言明していないが、重要な位置を示しているとほのめかしているあたり、僕が目を付けた人々(というか大勢いる中でほんのわずか知っている人々と言うべきなのだけれども)正にその人々こそが、今日を創った立役者だった。つまりは僕の目に狂いはなかったという、ちょっとした自尊心を満足させたわけだ。また、ジョブズやゲイツは、ほぼ僕と同年代の人間であることも何か因縁めいていて、今の僕は彼らには比べるべくもない状況ではあるけれども、決してこのままではないゾというものを湧き上がらせてくれた。
結局昨晩はこの本を読みながら3時にようやく寝る決意をしたのだけれども、4時には目覚めてしまった。それも夢の中でアップルの悪夢がうごめき、ついには全ての過去を断ち切る再生劇を果たしたアップルが、あろう事か超弩級の戦闘マシーンを作り上げていて。その戦艦のようなマシーンの砲塔がまるで戦艦大和のように列ぶ姿を見ているうちに、背筋が痛くなり寝ていられなくなったのだ。そして5時半本書を読み終えたと言うわけだ。読み終えてようやく、全てのいらいらが吹き飛んですっきりした。今日はもうこれから全開で行っちゃうもんね。へへへ・・・。
2/18
図書館へ行く日は小雨の日ばかりだ・・・。北図書館で「マイクロソフト」に関する新刊を調べると、積志図書館にあることが分かった。そこでぐるっと回って積志へ行ってみた。以前から行こうと思っていたところである。北図書館より蔵書が多い感じがする。これからはここへ来ようと思う。
そこで「マイクロソフト帝国裁かれる闇」上巻を借りることがで来た。早速読み始める。ビルゲイツを悪者扱いしているのだが。前回のアップルと違って何だか読みやすい。僕のビルゲイツに対する感情のせいもあるかも知れない。僕はビルゲイツを嫌いではないし、すごい人だと思っている。マイクロソフトの製品は素晴らしいと思っている。エクセルは今まで使ったソフトの中では素晴らしい出来だったし。最近はワードもよく利用する。マイクロソフトオフィスはよくできた製品だ。でもスティーブ・ジョブスやアップルほど好きではない。マイクロソフトの製品はちまたに溢れ、それこそ、読み始めたほんのテーマである、マイクロソフトの独占に関する正当性を疑いたくなるほどだ。とはいえ若干まだろっこしい部分もあるけど、どのソフトウエアーもよくできていてる。
とにかく今から読み始めようとしている「マイクロソフト帝国裁かれる闇」はおもしろそうだ。ビル・ゲイツをロックフェラーになぞらえている。ビル・ゲイツは、悪の帝王という呼ばれ方がどうも似合ってしまう。見かけはちょっともそうではないにも関わらずだ。
僕は、そのビルゲイツの物語を、ビルゲイツが構築したマイクロソフトの製品を使いながら読む。
11時15分頃 どすんと直下型の地震が来た。そしてすぐにぐらぐらと横揺れが続いた。オープンデッキの上のリーベが涼しげに音を立てた。結構揺れを強く感じだがその後は何ごともなかったように静まりかえった。状況を確認しようとテレビとラジオにしばらく注目したが、なんら地震情報はテロップにも出なかった。
2/21
図書館で借りてきた「秀作ネーミング」辞典や「マーク・ロゴの変遷」の本が役に立つだろう。毎日少しずつ、家の中を整理して、どんどん素晴らしくなっていく。必要なものを作り。どんどんどんどん・・・。我が家は本当に素晴らしいところだ。
2/23
「マイクロソフト帝国裁かれる闇」上巻を返し、下巻を借りる。
2/25
昨日はリングワールドの玉座を読み終え。風呂に入り、マイクロソフトオフィスの活用ガイドを読み始めた。そして今日は、ついに、マックの住所録データーベースのデータを、ウインドウズへ移植し、ウインドウズ版の住所録を作成することに成功した。何故かハードディスクの空き容量が50Mほどに減っている。あまりに減りすぎである。データーはそれほど増えていないはずである。デフラグでハードディスクを整理する。112Mへ回復した。この差は大きい。どうなっているのだ。
でも取り合えず、オフィスのワード・エクセルは以前から使い成れていた上に、便利な利用法を発見。アクセス・スケジュールを使えるようになった。バインダーの使い方も分かった。
2/26
積志図書館へ行った。マイクロソフト帝国裁かれる闇を返却。下巻を予約した。本をカバーするシートを分けて下さいと頼んだが、断られた。
久しぶりにアップル2に火を入れた。ちゃんと動いた。たいしたものだ。モニターが若干歪んでいるがしばらく温めれば正常になるだろう。”ピッ・カタカタカタカタ・”と言うディスク2の音がなんとも懐かしい。ウルティマ3を動かしてみた。これはこれでこのままで価値があるような気がする。してみると、今のプレイステーションなどのゲーム機は、本当に優れものだなあ。
夜、雨が降ってきた。
2/27
昨晩、マッキントッシュ伝説を読み終えた。こうして何気なく、当たり前に、画面に日本語を表示しているけど、かつてはこれができなかった。アップル2もマックも素晴らしいコンピューターだったけれど。日本語が表示できなかった。ようやくダイナマックが出て、日本が表示ができたけれど、お粗末なものだった。それでも、そのお粗末な環境でも、僕はマックがほしくて、マックを手に入れ。お粗末な環境で利用したのだった。いまや、かつて利用したかった環境が、マックだろうとウインドウズだろうと関わらずに、当たり前に使えるようになった。そんな歴史やら、もう忘れていた、かつての使いにくかった時代のことを思い出す本だった。
3/7
「ビルゲイツの未来を語る」を読んでいたが、そのうちうとうとしてしまった。そして今目が覚めたところだ。世の中は雨が降っていた。鼻が詰まってしまっているので、口がからからだ。舌が荒れている。これはパイプのせいもあるだろう。
3/9
さて、アップルを読み、マイクロソフト帝国裁かれる闇を読み、Javaの解説書を読んで来た今、ビルゲイツ未来を語るは、以前と違った感覚で僕に映ってくる。ビルゲイツは好きだったが、今は少し違う感じだ。ジョブズを好きだった僕が、何となく離反して、また今は変わらず好きな僕になっている。だから、もうしばらくするとゲイツをまた好きになるかも知れない。しかし、大きな事をなし得た人間は、しばし、良くない感じが見えかくれしてくる。そんなこともあって、かつてはマイクロソフトが好きだったのに、つい最近までは、マイクロソフトがあればたいてい事足りるとさえ思ってたほどなのに、今は何となくマイクロソフトに反撥を感じている。かつてコンピューターはプログラムを作る道具だった。今は文書や絵を描く道具になっている。そして通信の道具になるのだろうが、今は出費を押さえるために、接続していないから、そこんとこは近い将来という事になる。いずれにしろ創造的道具だったのだが・・・。今はプログラミングなどしたこともない。
3/18
グインサーガは、どんどん、思いもかけぬ展開を見せ拡がっている。よくここまで書いたものだと感心する。作家を志すものなら誰でも、おのが筆一本で紡ぎ出す世界を、一つの小宇宙を創り出したいと思うものだ。アシモフの銀河帝国もしかり。ニーブンのノウンスペース、田中の銀河英雄伝説しかり、ルーカスのスターウオーズ世界しかりだ。栗本薫のグインサーガもご多分に漏れず、地理から、距離のは借り方、時間のは借り方、暦、食品飲み物に至るまで、ありとあらゆるものを作り上げている。書き始める前から100巻を目指して物語は始まり、16巻を終えたときにようやく序章が終わったと豪語するあたりもすごいが、すでに50巻を越えギネスブックに、個人としての小説の最長記録として登録されたらしい。大学時代にその存在を知り、すでに10巻近く刊行されていたので、追いつけ追い越せとばかりに読み進み、社会人になる頃序章たる16巻を迎えた。すでに付き合い初めて15~6年だろうか。途中で読むのが嫌になったときもあった。つい最近も嫌になって止まっていたのだが、先頃買い貯めてあったものを読み始めた。やはりおもしろい。かなりえげつない悪徳の臭いを放ちながら、快調にグイン世界が展開している。少々作家側も傲慢になってきているのを、タッチから感じる。とはいえ、つい読み進んでしまう。ここ数日でたまっていた4巻を読んでしまった。
3/20
一週間ほどはグインサーガを読み続けてしまったので、図書館で借りたマイクロソフト帝国裁かれる闇下巻はまだ読み終えぬまま、返却期日が来てしまった。ましてやビルゲイツ未来を語るは、かったるくて途中で止まってしまった。
今日は、図書館へ返却の日だから、マイクロソフト帝国裁かれる闇を持って図書館へ行った。雨のせいで咲いたばかりの木蓮の花が無惨に散り始めている。玄関を出ると、言い香りがした。いまだにどの植物の香りか分からないがいい香りだ。郵便物が来ていた。暮らすと言うだけで随分税金がかかるものだ。固定資産税と、放浪社の県税の請求が来ていた。図書館へ行き、グインサーガの続巻を確認すると56巻・57巻があったのでそれと、マイクロソフトとSF大百科事典を借りる。
3/24
「マイクロソフト帝国裁かれる闇」下巻を読み終えた。その分で言うと、全くウインドウズの環境下で、MSオフィスを使い、インターネット・エクスプローラーを使うのは、マイクロソフトの策略であると言うことになる。ご多分に漏れず、僕も98はウインドウズにMSオフィスとインターネット・エクスプローラーを見事に利用している。それ以外はほとんど利用していないと言っても過言ではない。でもエクセルとワードは、他のものを使うよりあえてこれを使いたいソフトだ。インターネット・エクスプローラーはたち上げが遅くて重いからあまり好きではないが、実際ネットスケープナビゲーターは使っていない。この本はウインディ・ゴールドマン・ロームはかなり癖のあるジャーナリストという感じがする。一方的にマイクロソフトを非難している感じがする。大筋は知らないことばかりだから信じてしまうしかないが、アップルとのやり取りは先日読んだばかりの「アップル」上下巻に書かれていたことと若干違う感じがする。つまり、他のことも、著者の独断で決めつけられている面が大いにあるだろうと予想された。文章も自分だけが分かっているような書き方が方々に見られて意味が不明だったり、結局誰が誰に対してどうだったか分かりづらい所が随所に見られた。そんな風だから途中で読むのを中断してしまって、グインサーガを読み始めたのも無理はないかも知れない。マイクロソフトの一面、現在のコンピューター業界の一面を知ることはで来たが、気分のいいものではなかったし、今読み終わっても、やっと読み終えることがで来た。よかった。読み終えないことには何だかすっきりしないもの、でも読むのは苦痛だと言った本だった。「アップル」も読むのが苦痛だった。でも「アップル」は読み終えたあとはすっきりしたものだった。
3/26
藤沢周平の「風の果て」上下巻を読み終える。おもしろかった。あっと言う間に読み終えてしまった。淡々とした語り口の中に、何か引き込むものがあり、安心して読める物語だった。どこの藩の物語だろうと最初は思ったものだったが、結局あとがきに全くの架空の藩での出来事を構築している。とあったためようやく、ははんなるほどと納得した次第。どうして引き込まれるのかというと、最初に結末が示されているのに、どうしてこうなったのかが知りたくてついつい読み進んでしまうと言う構造だ。その過程には無理がなく見事な物語だった。そして読後に深みのある余韻が残った。
3/27
今日は、京極夏彦の「狂骨の夢」という本を借りてきた。なんと彼は「妖怪小説」と言うジャンルを開発したのだそうだ。以前丹波だったかが、読んでいておもしろいと言っていたのを思い出して、図書館で探してみたら、京極夏彦の本が二冊あったのである。そこでどちらを借りようかと見比べていると、正にその時、図書館員らしき人がやってきて、一冊を持って行ってしまったのである。誰かが予約をしたのだろう。と言うわけで僕は悩む必要がなくなり、残った方を借りてきたと言うわけだ。彼の本はどれも分厚いのが特徴だ。まずは一冊読んでみよう。どれお手並み拝見と言ったところだ。京極氏は昭和38年生まれだから、僕よりも若いのだ。ちょっと嫉妬してしまう。
3/30
昨日はただただ「狂骨の夢」を読む一日だった。風呂に入ってさえ読んでいた、身体も洗わず。読みふけった。人は何らかの神秘体験が、人生を大きく左右すると言うこと。宗教を信仰する人の多くは、神秘体験に裏付けられていること。そしてほとんどの人が神秘体験を望んでいること。まあそんなことなんかを感じながら読んでいた。狂骨の夢は、結局妖怪は出て来なかったし、神秘体験すら、実は神秘的でもなんでもなかったという説明がちゃんとなされ、その分荒唐無稽な感じではなくまとめられていた。でも謎は謎を呼び、これはどうなるんだと、どんどん風呂敷を広げて行き、収拾なんかつきそうにない状態で、見事に様々な事件が一つに収束されて、すっきりさせてしまうあたりなかなかなものだった。最近は名探偵コナンとか、金田一少年の事件簿とかいった感じで、少年向けのマンガの中でも推理ものが好まれている感じだ。昔から推理ものは好まれていたけど・・・。とにかくどうなるんだろうと言うことで、次が読みたくなってしまう。でもあんまり目に涙をにじませて感動するというものではない。ここ最近沢山本を読んだけど、感動する本にはなかなか出会わなかった。藤沢周平の「風の果て」も感動はしなかった。そうだなあ、本当に今まで読んだ本で感動したものは、オーソン・スコット・カードの「エンダーのゲーム」「使者の代弁者」とか三浦綾子の「塩狩峠」だろうか。胸の奥から突き上げてくるような感動があったな。なかなかそう言う作品には出会えない。そしてやっぱり思うことは、感動を与えてくれた作家は信仰を持っていたという事。何か動かし難い拠り所を持って描く作家の物語には、魂を揺さぶる何かがあるという事だろうか。そう言ったものを持たない作家の物語は、確かにおもしろいのだが、おもしろいで終わってしまう。栗本薫の「グイン・サーが」などはよくここまで書くと思うけれど、つい続きが見たくなる連続ドラマであって、随分長く付き合ってきたけれども、感動の経験はなかったように思う。エンターテイメントとはそうしたものかも知れない。とにかくおもしろいことが第一だ。エンターテイメントと感動の大作は、なかなか相いれないものらしい。
3/31
栗本薫の小説は、いちいち大げさで、回りくどくて。修飾語が多いから読んでいていらいらしてくるところがあるね。出来の言い作品というのは、そこはかとない表現に、色々なことを感じさせるものだろうなんて、彼女の作品を読めば読むほどに思ったりする。ならばもう読むのを止せばいいのに、まだ読んでいる、不思議なもんだ。現在58巻まで読み進めてきたから、とにかく100巻全てが終わるまでなんとか読むだけは読み切ってみようと思って取り合えず読んでいる。あれ以来実は読む気がなくなって、買い置きが増える一方ちっとも読まなかったんだよな。3年前ゴロだったか。50巻ちょうどの頃だ。今どこまで進んでいるのか知らないけど、約三年の間にもう60巻を越え、外伝も僕が読んでいないものが5巻ほどあるようだ。10数巻から20巻近くたまっていることになる。20巻として3年だから1年の間に6巻ほど出していることになる。つまり2月に1巻は出していることになる勘定だ。確かによく書くことだけは書いていると思う。でも、段々又膿んできたね。いつもそうなんだ。読み進む家に膿んで来るんだ。彼女の作品は。それでも読ませてしまうんだから、これも一つの力だろうけど、言ってみれば腐れ縁のようなもので、しょうことなしに読んでいるというか。変なものだ。
そういえば昨日、感動する作品は、作家が何らかの宗教家であるようなことを書いたけれど、宮崎峻は何か信仰しているのだろうか。どうもそう言った感じは受けない。でも彼の作品は、正に魂がふるえるような感動があった。「風の谷のナウシカ」は幾たびか感動の山場が襲ってきた。最後の終わり方はだいぶ物足りない感じだったが、よくあれだけの世界を紡ぎだしたと思う。そして本当に幾たびか、お腹のそこからこみ上げてくる感動を味あわせてくれた。彼も不思議なストーリーテラーだ。もう一度感動した本だけを読み返してみようか。ここ数日、随分本を読み漁ったけれど(約38冊/3ヶ月間)、本当に感動する本には出会っていないのだもの。買い置きの本16冊(スター・ウオーズ8冊、グイン・サーガ5冊、リングワールド、ブレードランナー、新電子立国)借りた本が19冊(アップル上下巻、マイクロソフト上下巻、マッキントッシュ伝説、マッキントッシュ物語、Java、ループ、マンガと戦争、グイン・サーガ2冊、風の果て上下巻、狂骨の夢、図鑑・辞典5冊)漫画が3冊(藤子不二夫SF短編集3冊カンビュセスの籤、緑の守護神、征地球論)この中で本当に読んでよかったと思えるのは新電子立国1冊だけだ。なんともはや。でもかつてうつ病だった頃、藤子不二夫のSF短編集は、何かくらい気分を引き起こしてちゃんと読めなかったものだが、今回は非常に楽しく読むことがで来た。
ひょんな事からなつかしの卒業論文を見た。CP/Mが僕の卒論テーマだった。今思うと、なかなか言い出会いだったかも知れない。パーソナルコンピューターのオペレーティングシステムの先駆者となったCP/M。当時学生だった僕は、電子工学の学生であったこともそうだけど、コンピューターにあこがれていた。でも手が届くものではなかった。毎日のように訪れていた、梅田阪急の紀伊国屋書店でCP/Mと言う言葉を初めて見た。耳慣れなかったけれど、やけにそこら中で見かけたので、これは何かある、なんだろうと興味を持った。そして、卒論では偶然にもCP/Mがテーマとなった。ちょうどその頃、両親に頼み込んでようやくアップル2の中古品を手に入れたところだった。アップル2ではCP/Mは走らなかったが、BASICを自宅で試すことはで来た。そういえばあの頃は、ようやくパーソナルコンピューターがちまたに出回り始めていて、これも毎日のように、コンピューターショップを訪れていた。そんな中でもアップル2は魅力的だった。ソフトウエアーも国産のものを遥かにしのいで優れたものがあった。でもいずれもほとんどが英語のソフトで、国産のコンピューターは、カタカナではあっても日本語が使えた。そしてアップルは高かった。NECのPC−8000シリーズ、8800シリーズ。富士通のFM8、FM7シリーズ。シャープのMZシリーズ。そんな中にはソードやパナソニック、東芝のパソピアなんてのもあったけど。アップル2とコモドールのペットが何だかかっこよかった。そしてシンクレアというイギリス製の随分安いコンピューターがあった。Z80をCPUに使ったコンピューターが主流だった中で、一番安かったし、BASICも走っていた。そのうちASCIIらが提唱した、安いコンピューター郡としてMSXが登場し、NECからはPC−6000シリーズが出てきた。だいぶ安いものが出てきたわけだ。毎晩のように、あれがいいかこれがいいか、スペックを見てカタログとにらめっこをしていた。ある日、難波のショップでアップル2の中古品が出ていた。25万円位したと思う。当時中古でなければ倍近くしたから、これは掘り出し物だと毎日通って眺めた。どれほど通っただろうか、ついに決心して両親に頼み込んだ。父は随分怒ったが、なんとか出してくれた。そして僕は念願のアップル2を手にしたのだ。中古品だから、ちゃんとした箱もないし、マニュアルも少々破れていたが、僕の宝物となった。アップルフリークの誕生だ。毎日マニュアルを持ち歩き、読み漁り、家に帰ると、いじり回した。BASICで、色々なプログラミングをした。それより2年ほど前だろうか、この時も随分悩んでようやく電卓を買ったのだった。カシオのFX−502Pプログラミング電卓だった。早速、マニュアルを読み漁りプログラミングをして遊んだ。これは持ち運びができるから電車の中でもプログラミングがで来た。ハノイの塔やトロン、ポーカーなど色々作ったなー。どんどん深みに入っていった。電卓は友人が買い換えるというので、翌年だったか僕のFX−502Pを友人に売り、別の友人からFX−602Pに買い換えたのもこのころだった。602Pは大文字小文字にカタカナ表示がで来た。そして手に入れたアップルだったから、大変だ。カラー表示もできる。コンピューターショップへ行くと、決まって、店頭においてあるコンピューターに、簡単な作図プログラムをして、動かしたりしたものだった。大学にはIBMの360があったが、これはパンチカードを使ってフォートランでプログラムして、何だか訳の分からない懐石プログラムばかりやらされたからちっともおもしろくなかった。でも研究室には、日立のベーシックマスターと、タロス2が置いてあった。タロスはCP/Mマシーンだ。毎日自由にいじることがで来た。同じ研究室の友人たちと、絶えず入り浸りでCP/Mと格闘した。アセンブラ言語でのプログラムはあまりうまくなれなかったけれど、とにかく少しは分かる程度になっていた。その後どういう風の吹き回しか、8年も学校に行ったというのにローランドに就職することがで来、DGに配属が決まり、プログラミングをすることが仕事となった。マシーンはPC−8800とタロス2によるCP/Mマシーンだった。気が付くと、ばしばしソフトを開発し始めた。PC−9800が導入され、MS−DOSに移行していったのは自然な流れだった。そしてしばらくMS−DOSを使った後、UNIXへシステムは変わっていった。信じられないことだけど、当初UNIXの管理者は僕だった。ASRというUNIXマシーンの会社に数日の研修に行き、その後メンテナンスからバックアップを受け持っていた。メールを使うようになり、インターネットの全身となるメーリングにも参加して、Eメールは当たり前の感じだった。こうして思い出すとき、大学時代卒業論文にCP/Mをやらせてもらったおかげだと思う。当時色々かっこいいテーマが幾つかあったように思うのだが、当時としてはまだあまり脚光を浴びていなかったパソコンのOS、今や時代の花形だ。会社に入ってすぐ、アップル2はもちろん使っていたけれども、ようやくマッキントッシュという、素敵なコンピューターがアップルから発表された。初めはリサのことばかりを耳にしていたけれども、リサはあまりに高価だった。そして時代はマッキントシュに移り変わっていった。どこで知り合ったのか分からない。大学時代のアップル仲間の紹介かも知れない。一度もあったことのない人から、結構値打ちにマックを買うことがで来た。そして僕はマックユーザーになった。当時マックを持っている人は少なかった。でもしばらくすると、僕の持っているマックは時代遅れになり、マックプラスを持つ友人たちが増えていった。なんとか漢字トークが走って、日本語処理が出きるマックだ。僕のマックはダイナマックだった。512Kバイトのメモリーと、漢字ロム、EGブリッジと言うソフトのおかげでなんとか漢字が表示できたけれど、マック本来の、各種ポイントでフォントを使う環境にはほど遠かった。相変わらずアップル2の時と同じ英語マシーンだった。でも早くからマックOSのアイコンとマウスを使った素晴らしい環境は堪能することがで来た。又アップル2時代同様質のいいゲームにも恵まれた。こうして、不思議と時代の波を捕らえて、最新テクノロジーを我がものとすることがで来ていたのだと思う。
5/20
先日「プラクティスエフェクト」を読んだ。その前には「野獣死すべし」を読み「黒猫」を読んだ。この二つは、破壊的な物語だった。それはその時の僕自身だった。でもそんな自分が何だかいやだった。そこで「プラクティスエフェクト」を読み始めたのだ。おもしろかった。とても建設的な前向きな気分に変わった。そして今「エンダーのゲームを読んでいる。僕はエンダーのように気付くべきだったのだろうか。あの東京での3ヶ月間の時も。そして今この時も・・・。
9/20
シドニー・シェルダンの「私は別人」を読んだ。多くの人がシドニー・シェルダンの本はおもしろいと言ったから、いつか読まなくちゃと思っていたからようやく読んだ感じだ。結論、そんなにおもしろくなかった。何だか物足りなくて、もっと本が読みたくて、でも買うのもなんだから、手持ちの本を眺めていて結局久しぶりにホーガンの本を3冊読んだ「星を継ぐもの」「ガニメデの優しい巨人」「巨人達の星」3部作だ。これはおもしろかった。月面に5万年前に死んだ人類の死体が見つかったことから、人類創世の謎解きが始まる。そこにさらに未知の文明巨人族がからんでいる。とにかく本書では、科学が全てを明確にすると言うバックボーンがある。「星を継ぐもの」ではさほど明確ではないが「巨人達の星」では実は、人類の歴史の中で伝えられてきた伝承・神話・信仰は全て、人為的な操作だったとされる。でもこの物語の展開はスムースで、理論に無理がなく、そうかも知れないと思えてしまえるくらいだった。さらに「巨人達の星」では、スパイアクション的な要素まで盛り込まれて、読者を楽しませてくれた。そして読みながら、コンピュータに関わる描写が出てくると、自分のコンピューターにさわりたくなり。宇宙船や宇宙に関わる描写では、そんな映像のあった映画が見たくなった。そして思うことがある。人は幼い頃から、物語や、事に近年ではテレビを通じて、色々な情景を記憶に取り込んでいく。多くの場合幼い頃に取り込んだ情景が一番根深いところに定着しているようなのだが、その情景は必ずしもその当時見たままではなく、その頃取り込んだ色々な情景が混ざり合った形になっている。そして大きくなるに従いその情景は、根っこのところに定着したまま成長を遂げその人独自の情景を形成する。そしてその人の人生の中で色々な夢や動機に深く関わっていく。ある日本を読みたいと思う。あるいは映画が見たいと思う。よみたい本読みたい映画は、そんな根っこに定着した情景や感情を、具体的にしてくれたり、わきたたせてくれるものを望んでいる場合が多い。ところが多くの場合、途中までは期待にそくしているのだけれどもどこか違う。結局消化不良な感じで、物足りなさが残ってしまう。それは人の数ほど、要求があるから、万人の期待に添う物語はあり得ないのだろう。僕の場合もたいていそんな感じで、いつかしっくり来る奴に巡り会うのを楽しみに、本を開き映画を見る。でもそろそろ、自分で作るときが来たのだと思う。そんなことを思いながら、まだ満たされない思いで、学生時代に愛読した半村良の「獣人伝説」を読んだ。結果は不満足。神と悪魔の闘いがちょっとコミカルに描かれている。でも悲しい終末を迎える。神とは実は悪魔が作ったものだった。
こんな風にむかし読んだ本を久しぶりにひもとく時、一種異様なあせりがよぎった。同じ本を何度も読んでいては、人生が終わるまでにどれくらいの本が読めることだろう。どうせ読むなら違う本と巡り会いたい。ところが読んでみると、ほとんど忘れているのだ。初めて読むような感じだ。これでは大して読めやしない。
そういえば、ホーガンの本にも半村良の本にも同じように感じることがあった。つまり、人の一生は有限だからおもしろいというもの。有限だからこそ人はその時間を有効に使おうと一生懸命になる。もし不死で無限だったら、人はなにもしなくなるだろう。と言うもの。そうだなと思う。ましてや、ここ数年の間に経験したことを通じて強く痛感する。有限な人生だからおもしろい。まだ僕の人生は折り返し地点を過ぎたところだ。まだまだこれからである。
小説の中で、多くの主人公は突如としてそれまでの平凡な日常から切り放された経験をする。物語とはそういうものである。つまり、読者は、平凡な日常から切り放された経験を求めている。でも、実際には切り放されることなく経験だけをしたい。だから本を読み映画を見る。ところが、ここ数年僕は、現実に平凡な日常から切り放された経験を、実体験としてしたのだ。そして、それらをくぐり抜け、また平凡な日常に帰還した。もちろん、その過程があるから、見た目は平凡な日常であっても、中身は180どことなった生活となっていても、やはり、在り来たりな、そして安全な日常に戻ったのだ。例えば小説を読むこと自体が日常の全てで、一つの小説を読むのに1年まるまるかかったとしよう。読んでいるときは、小説の中の波瀾万丈な世界が日々の生活そのものだ。でも1年たち読み終えたとき、気が付くと以前と変わらぬ平凡な日常に戻っていたというのはどうだろう。
2000年
1/6
昨日
「エンデミオンの覚醒」ダン・シモンズ
「ファウンデーションの危機」グレゴリー・ベンフォード
「300人委員会」
「バースデイ」鈴木光二
「Networkpro」「一歩先行くホームページの作り方」
「GTO」を購入
久しぶりに沢山本を買った ヤッホー。
早速永田さんに借りていた「神との対話3」を読み終え、バースデイにとりかかる。そして今日読み終え、継ぎは何を読もうかなと言うところ。
1/7
午前2時44分 300人委員会を読み始めた。すると、遠くで雷鳴が聞こえ始めた。それは初め自動車の騒音のように聞こえた。そして見る間に近づいてきて、南から北へと移動していった。何か暗示めいた。啓示のようなものを感じる。わくわくどきどきする瞬間。天が何かを言っている。雷は漆黒の夜空を真昼のように照らした。そして地響きのする轟音が轟く。雨が降っている。なんとも言い様のない不思議な瞬間。2000年の1月7日は雷と共に始まった。
12/22
聖なる予言・第10の予言
2001年
読まなかったみたい。
2002年
読まなかったみたい。
2003年
読まなかったみたい。
2004年
読まなかったみたい。
2005年
1/31
星新一。アニマックスで星新一の作品がアニメ化されるコマーシャルを見た。にわかに星新一の作品が懐かしくなり、作品化されるという「気まぐれロボット」の収録された文庫を早速読んだ。勢いで文庫「ボッコちゃん」を読み始める。
氏の作品について久しぶりに読んで思い出した感覚がある。
それは
タイトルを読んでストーリーを読み始める、2~3行読み進むと、
「あれー、なんていうタイトルだったっけ?」タイトルが想い出せない。
そこでもう一度タイトルを見る
「そう、そういうタイトルだったんだ」と確認して、続きを読み始める。
そうしてしばらく読んでいくと、またタイトルが分からなくなるのだ。
もう一度タイトルを確認する。
大方を読んだときにようやく、なるほどだからこういうタイトルなんだと腑に落ちる。大方といっても3ページほどで、この繰り返しが起こる。
だったら、最後にタイトルを見ればいいようなものだが、読んでいる最中にどうしても気になってしまうのが不思議だ。
さて角川文庫「気まぐれロボット」の後書きを谷川俊太郎が書いていた。彼は、大変なできどとを一言で「エヌ氏はタイムマシンを発明した」のようにしょっぱなから書き出し、細かなディテールは書かない。その文体のシンプルさに星新一の作品の秘密があるとかなんとか。まそんなことを描いていたように思う。そして、「気まぐれロボット」に収録された作品はいずれも、確かにそういった、余分な表現がとても少ない作品ばかりが集まっている。
こうして「気まぐれロボット」を後書きまで読んで新潮文庫「ボッコちゃん」を読んでゆくと。あれれ、雰囲気が違うのだ、ずいぶん言葉を飾っている。一つの作品が短いことはいずれも同じ何だけど、文体がずいぶん違うように思えたわけだ。谷川さんの解説が印象的だったからかもしれない。
さて僕の記憶の中では
「愛の鍵」が最も好きな作品で、「ボッコちゃんが」最も記憶に深い作品だ。
そうしてわずかばかりの期待を抱きながらアニメーションを見た
面白くなかった
一話が短すぎて、ストーリーが分かりにくいんだと思う。
でももともとが短い話で、比較的忠実に再現してるんだよね
ところが、微妙に違うから
つい最近原作を読んでしまった僕は
原作とも比較して、その雰囲気の違いにがっかりしたのだが
妻は原作を読んだわけでも、作品に過度の期待を抱いていたわけでもない状態で、とてもつまらなそうに見ていた。
つまらなかったんだと思う。
カウボーイビバップ
軽快なテンポとカントリー風のハーモニカ、ジャジーなウッドベース
一番いいのが予告編だ
毎回必ず笑ってしまう。
功殻機動隊
複雑な設定とストーリーを良く30分間にまとめて見せる
とてもクールなのだけど
突拍子もなくお茶目なタチコマが
このクールで少しヘビーな物語を
とても愛らしい物語にしている。
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