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1987-1995

日記に綴られた読書の記録。ある時期異常に書き綴っていた日々があった。


1987年

1/30

 ハインラインの「愛に時間を」を読み終えた。誰かを愛さずにはいられない気分だ。そして3年前の出来事が、まるで昨日のことのように思い出せる事実に驚いた。なんてつまらないことだろう、ああ、誰かを愛したい、でも、できない、そんな気分だ。


7/15

 山田風太郎の「人間臨終図鑑 上巻」 いろんな著名人の死に様を年令別に集めた不思議な本だ。常なら人の死に様などさほど興味も持たないだろうに、最近の僕は、こんな本を面白く読んでしまう。

 40歳以前に死んだ人というのは不幸な死に方をした人が多い。特に昭和初期の作家達は貧困と病気に苦しめられ、ほとんど発狂するように死んでいる。叉、生前はその才能すら認められていない人が多い。死して後というか、死ぬことによってその才能を知られ、惜しまれている。なんともはかないことだろう。

 時折死を感じる僕は、今認められるような才能の発路があるだろうか。時折やってくる狂おしい空しさ、生きることのめんどくささを、何とかごまかしている最近だが。このまま死んでは、あまりにたかだか30年そこそこではあれ、なんのために生きてきたのかわからない。何か世の人々を感動させる事をなしておきたい。僕という人間が生きていた証がほしいと、多くの人の死に様を知るに付け思うことである。


 

1989年

1/8

 ウイリアム・ギブスンの「ニューロマンサー」を読みながら、現実と空想の世界の境目が不確定になり、浮揚感を持ったメマイに襲われている。


2/11

 「エンダーのゲーム」を読み終える。僕はエンダーの考え方をしている自分を感じる・・・。

 「ソロモンの指輪」を読み終える。動物達の本能的な攻撃衝動と攻撃抑制衝動、筆者が言う「人もし汝の右のほほをうたば、左おもむけよ」とはもっと打たせるためではなく、打たせないためにこそそうするのだという言葉に敬虔な気持ちになる・・・。

 「スカリー 上」を読み始める。俺もと思う半面、才能豊かな人、運に恵まれた人へのかるい嫉妬がある。いずれにしろ彼の苦労話はそこそこにしておき彼の考えや、行動パターンは大いに参考にすべきだな・・・。


2/18

 「スカリー 上」を読み終える。スティーブ・ジョブスの偉大さを知り、自分の何と保守的であるかをゲンナリする。それにしても、スティーブは一体どういう能力があるのだろう。ハードウエアやソフトウエアを設計する能力があるのだろうか。どのようなものが必要であるかを提示することができるらしい事は分かるのだけど、どうも優れたソフトウエアエンジニアであったりハードウエア設計者であるわけではないようだし、根本的に大切なことは、そんなことではないということみたいだ。


2/24

 「スカリ− 下」のエピローグ ″21世紀のルネッサンス″を読んでいて僕は一つのことに気がついた。

 スカリ−は日本についてよく触れている。日本から学ぶことが沢山あるというのだ。企業経営の考え方や、工場の在り方など。さらには文化、国民の考え方にも。その一つとして禅をあげたりする。僕はニヤリと微笑んだ瞬間がくぜんとしてしまった。僕はスカリーの言うことから多くを学ぼうとしたけれども、彼は日本からそれらを学んだというのだ、僕は彼が学んだという日本にいながら、彼が学んだことを学んでいない。企業の考え方にしろ、工場の在り方にしろ、禅だって全くなんのことか分からない。僕らは、どちらかと言うと日本にいながら日本の良さを知らずに、外に向いているらしい事、情報化社会となり、おそらく日本にいることと、アメリカにいることの差が余りなくなっているのではないかということを感じる。いずれにしろ、ぼくはもっと、日本人の持つ海外の人々が優れていると感じていることについてもっと知っておかなければならないと思う。


3/2

 「ブレイクスルー!」を読み始める。本日は竜野松下電工に出張のため、新幹線の中で読む。それによると″想像的な人間は散らかり放題の机でも異常なほど平気で仕事ができること、そして、一様に良く発達したユーモアのセンスを持っていること、これがベル研の結論だった″。僕はというと、散らかった机なんて我慢できないし、気がつくとジョークの一つも言うことのできない人間になっていることに気がつく。


 

1990年

5/6

 出がけの喫茶店で読んだ本に「イワンのバカ」が載っていた。「2人の兄はそれぞれ名を成しよい暮らしをしていたが、イワンは特にこれと言った才能もなくひっそりと畑を耕し両親と妹の面倒を見ていた。そこへ悪魔がやってきて兄達からすべてを取り上げてしまった。兄達はうちひしがれイワンの元へ身を寄せて暮らした。ところが悪魔はイワンから何も奪うことができなかった。そしてイワンの所にこそすべてがあった。」というお話し。欲しいものがたくさんある、こつこつと働くことを疎ましく思う、才能が欲しいと思い当てのないさすらいの中へ旅立ってしまう、イワンのように暮らせない。手に入れたものを失って失意の底に沈んだりしながら暮らすのだろう、なんかおかしいな。


 

1993年

7/6

 荒巻義雄「時の葦舟」を読み、幻想と現実のはざまで漂い、僕の中の幻想と現実を表現したいと思う。

 太宰 治「佐渡」を読み、心象風景の押し売りもまた面白いと思い。

 太宰 治「トカトントン」を読み、情熱につき動かされるままに動いたあとの虚しさ、突如として訪れる虚無、どうしようもない自分のこの癖のような生き様をどう受け取ったものかと思う。

 ゲ−テ「若きウエルテルの悩み」を読み、こんなふうに思ったままを綴ることができたらどんなにかすばらしいだろうと思い。自分にもこのような思いがあることに気付き、それを書き残したいと思うのだ。


 

1994年

11/9

 何がこの不確かなやるせなさの原因なのだろう。今回の場合は多分に今読んでいる三島由紀夫の「豊暁の海 第1巻 春の雪」のせいであることは間違いない。



12/5

 「豊嬢の海」第2巻「奔馬」を読み終える。純粋とは何だったのか、青年だったころ、僕の目も真っすぐに物を見つめるひたむきさ、物を恐れぬ若者だけが持っている一種危険さを秘めたあの瞳を持っていたに違いない。「奔馬」を読んではっきりとその頃の瞳と気持ちを思い出す。そしてその気持ちを思い出したその瞬間の僕の瞳は、あの頃の若者の目に戻っているような気がする。この気持ちを忘れたくない。


 

1995年

5/12

 「1995年のビリヤード」

僕の部屋には小さなビリヤード台がある。6ホールあるやつだ。白い玉を突いて1~15まで番号の付いた玉をホールへ落としていく。どこか人生に似ている。曲芸のような突き方はできない。曲芸はできなくてもいいからもう少しましな生き方ができないだろうか?


5/30

 「恐怖というものはね、憎悪や嫉妬よりももっと始末が悪いものなんだ。怖がっていたら人生に完全に打ち込めないよ。恐れがあると、何かをやろうとするとき、いつだって尻込みしてしまうものだ」(P.K.ディック「流れよわが涙、と警官は言った」より)

 「男が泣くのはなぜか?女とは違う。あんなことでは泣かない。感傷ではない。男は何かが、生きている何かが失われたときに泣くのだ。」(P.K.ディック「流れよわが涙、と警官は言った」より)

 表現のしようのない悲しさに捕われた一人の男が、街角の見ず知らずの黒人を抱きしめる。そのシーンを描きたいが為に100ページにも及ぶ複雑なストーリーを書くってのもいいじゃないか。P.K.ディック「流れよわが涙、と警官は言った」を読んで。

 そしてP.K.ディックは欝病だった。「そこで私は書く。私の愛する人達のことを書き、彼らを現実の世界ではなく、私の頭から紡ぎだされた架空の世界に住まわせようとする。現実の世界は私の規準に合わないからだ。分かっている、自分の規準を修正すべきなんだろうさ。私は足並みを乱している。私は現実と折れあうべきだ。だが、一度も折れあったことはない。」P.K.ディックの言葉より。

 ″共感″という言葉の意味を説明するために僕はP.K.ディックの「流れよわが涙、と警官は言った」を話して聞かせる事だろう。彼の語る悲しみがどれだけの人に分かるのだろうか、僕だからこそ分かるのだ、そんなふうに強く強く感じる。


5/31

 最近決まって6時に目が覚める、今日は晴れ渡り気持ちのいい日だ。家の窓を全部開いて回った。窓を開けながら今日見た夢を思い出す、教師をしていた。教師と言えば、高校時代の現国の先生、名前も忘れてしまったけれどどっちかというと地味な感じの若い女の先生だった。「今日は教科書を使わずに、こんな本を読んでみます。」と言って読み始めたのが、星新一の「ボッコチャン」だった。その時以来読書の楽しみを覚え、SF好きになり、自分で本屋に本を探しに行くようになった事を思い出す。本当に名前も忘れてしまったけど、現国の先生ありがとう。それまでは、両親がどんなに本を買い与えてくれても喜んで読まなかった(「そんごくう」と「宝島」が一冊になった子供用の本を思い出すなあ)、あの頃は漫画を読みたかったのに買ってくれなかった。ましてや教科書なんて面白いとも思わなかった。本に興味を抱けなかった僕に目を開かせてくれた授業だった。でもそれ以外の教科書の内容はどれも面白くないものばかりで唯一覚えているのが、宮沢賢二の「永訣の朝」だった。

 今でも僕の読書好きを両親が驚いた表情で見ている。欝期になると、何もやる気がなくなるので、本もなかなか読めなくなるのだが、昨日ようやくの思いで読み終えた、P.K.ディックの「流れよわが涙、と警官が言った」は非常な感銘を受けた一冊となった。

 文学で傑作とされているものは、たいていタイトルがいい「人間失格」「豊壌の海」「永訣の朝」そして今回の「流れよわが涙、と警官が言った」。

 それから出だしもいい「私は、その男の写真を3葉、見たことがある。」「学校で日露戦役の話が出たとき、松枝清顕は、もっとも親しい友だちの本多茂邦に、その時のことをよく覚えているかと聞いてみた」「けふのうちに、とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ」「流れよ我が涙、汝が泉より流れ落ちよ!」そして「雪国」の「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」なんともその物語のすべてを象徴していることか。

 今日は本当に気持ちのよい日だ、晴れ渡った朝の光の中、ひばりが空高くで騒がしげにさえずり、すずめが時折チュンチュンと鳴いている。

 よくよく考えるに、僕が列挙した小説はどれも暗い内容ばかりだ。僕自信が欝病に苦しんでいるからだろうか、太宰の「トカトントン」なんて全く欝病そのものだ。小説家には欝病患者が多いという事実が、少しの慰みかもしれない。まるで欝病であれば小説家に成れるかもしれないのだと自分に誤解させている。現実に欝病になると、一般社会での活動ができないから、自分のペースで生きて行ける職種を選ばなければならない。P.K.ディックの言うところの「現実の世界は私の規準に合わないからだ」ということになる。


6/10

 「何より大切なのは子供達がどれほど知性を持っているかではなくて、彼もしくは彼女がそれを使って何をしようと決意するかなのよ。」(宇宙のランデブーIVより)

 「人の親になるということは、結果の保証が全くない冒険なんだわ、・・・ただ一つ確実なのは、親は決して充分に努力したと確信することができないということよ。」(宇宙のランデブーIVより)

 「問題を克服する第一歩は、・・・問題が存在しているということを、あなたの愛する人に告げることだ。」(宇宙のランデブーIVより)


6/12

 三島由紀夫と村上春樹の類似点は、文章に比由的表現が多いことだ。ただし、三島の比由は古典的で美しく情緒的だ、村上の比由は現代的で、美しいというより感覚的な感じだ。そして村上春樹と、吉本バナナも類似点がある。それは、現代的なムードと、淡々とした語り口調、そして所々に現われる不思議な共感だ。しかし、三島と吉本は似ている気がしない。

三島も、太宰も、ゴッホも皆自殺している。でも大丈夫、僕が彼らを好きだからといって自殺するとは限らない。なんせ僕は晩期大成型であるという絶大なる確信を持っているのだから。今はとても晩期などといってられるような年じゃない。今こうして若いうちに苦しんでいる事がパーット晩期に花開くに決まっているのだから。


6/13

 「私を含めて、私の周りにも、あなたを含めて多分あなたの周りにも″困った人″は沢山居ます。才能だったり、欠落だったり、生きて行きにくい何かをいつも抱えて歩いている人。でも、この世にいるどのような人にも、誰にもはばからずに好きな位置でその人が思うように生きていい、そういうことを自分も含めて忘れそうになりそうなので、それを強く込めて、今ここで作品にしたかったのです。」(吉本ばなな「N・P」後書きより)

 「・・こころがけも、強さも弱さも、疲れも、心細さも、人とは決して分かち合えない。それならわかったふりをして口に出すより、わかった者同士として普通に時を過ごそう、その空間の共有こそがコミュニケーションというものだ」(吉本ばなな「N・P」文庫版後書きエッセイより)

 「結局、それぞれの人間がそれぞれの局面で言葉にしきれず、表現し難かった何かを物語にして見知らぬ他人と分かち合いたいのだ」(吉本ばなな「N・P」文庫版後書きエッセイより)


6/15

 大原まり子は、可愛い顔をしながらどんな脳味噌を持っているのだろう。その暗い作品のイメージはどの作品も破壊的で暴力的だ。建設的なイメージや、爽快感、共感、感動とは程遠い。そのくせ、不思議な世界感がある。そしてキーワードは″親殺し″だ。なんてショッキングなキーワードだろう、彼女は巻頭に″大好きな父と母に始めての本を捧げる″と言っているのだ。待望のモダン・スペース・オペラだそうだ。(大原まり子「一人で歩いていった猫」を読んで)


6/16

 午後5時:叔父の書いた歌集「風紋の谷」を読んだ。血を感じるなー。叔父は、幾度も転職をして苦労をしたらしい。時には歌人としてやっていけないかと願ったことだろう。今回本として出版できて嬉しかっただろうと思う。歌の良し悪しは良くわからないが、いくつか何となく想いが伝わってくるものがありマークした。全体として暗いイメージが伝わってくる。タイトルはかっこいいよな。

 大原まり子について僕は誤解していたようだ。「銀河ネットワークで歌を歌ったクジラ」は前作と打って変わって脳天気で全然ムードが違うのだ、いろんなスタイルを持っているのだ、やれやれ変なやつ、でも可愛い。


7/1

 村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」を読み始めた。今の僕の心境にとても近い出だしで話は始まった。象徴的な、暗示的な、運命的な感じがする。そして昼頃また眠りに付いた。

 午後5時、僕はテオと呼ばれる青年だった。バス何台かでやってきた不思議な団体に捕えられ殺されそうになった。電極を付けられ苦痛がやってくる、悶え苦しむ姿を大型スクリーンやいくつかのモニターに映してバスでやってきた団体がそれを、その他大勢に見せて喜んでいる。突然これは巧妙に仕組まれた嘘であることが未来の記憶と共に閃いた。僕ははめられたのだ、そしてもう一人同じようにはめられて苦しんでいる人がいる。僕は電極をはぎ取って叫んだ「馬鹿野郎ー、みんなだまされるんじゃねー」そして岩をスクリーン、モニターに投げ付け破壊した。もう一人を救い出した。バスの団体は「辞めろ、辞めろ」と騒いでいたが何もできなかった。事態が分かってきた他の大勢はバスの団体が持ってきた機材を破壊したり盗んだりしていた。テオと呼ばれる僕はチーターをつれてその場所から抜け出し山道へ逃げていった。バックで「○○監督はこの作品のかつてないバイオレンスシーンで賞を取ったがその後テオシリーズはどの作品も芳しくなかった。」と解説が流れていた。どうやら僕は映画の一部分を現実として生きていたらしい。そのままフェードアウトするように夢は終わった。


 村上春樹の「風の歌を聞け」から始まった一連の小説は1970年代から始まり「ダンス・ダンス・ダンス」は高度資本主義社会を舞台とした1980年代へと突入していく。幾度もおかしいくらい高度資本主義社会という言葉が出てくる、いわゆるバブルの時代だ。僕が描こうとしている時代はそのバブルの時代から始まり、バブル崩壊の時代へと変遷していく中での人々を描くことになるだろう。彼の描く時代と重なりながら10年ほどずれた時代を通り過ぎた若者の姿を描くことになるだろう。


7/12

 哲学と文学の融合の結果ファンタジー小説が生まれる「ソフィーの世界」

世界は何処から来たの

自分は何処から来たの

世界に果てはあるの

死後の世界はあるの

神は存在するの

世界の本質とは

自分の本質とは

幸福とは何か

正義とは何か

愛とは何か


7/13

 アゴタ・クリストファ「悪童日記」を読む:不思議な読後感の小説だった。悪くはないが、各界からの絶賛されるほどすごいとは思わなかった。確かにインパクトのあるショッキングな内容だった。でもストーリーに共感が持てなかった。ただし、感覚的表現を極力避けた文体は参考になる。


 アドルフ・ヒトラー「わが闘争(上)」を読む:彼は元々画家を目指していたという。言っていることが堅いのか、何を言っているのかすぐ分からない。しかし色々な角度から、自分の時代を分析しているところは結構勉強している感じがしたし、分からないでもない。ところがユダヤ人に対する記述が始まると有無を言わさぬ否定的な感じで始めは不愉快に感じた。ところが読み進むうちに、段々その気がしてくるところが恐ろしい。第1時世界大戦に敗戦して混乱し、沈んでいる国家を盛り上げていくあたりは感動的だった。


7/18

 アゴタ・クリストフ「ふたりの証拠」を読み終える。なぜ皆がそれほど絶賛するのか、何処に感動があるのか僕には分からない。でも一気に読み通してしまう魔力がある。


7/19

 午前9時:アゴタ・クリストフ「第3の嘘」を読み終える。何とも言い様のない悲しさを感ずる、ここにもまた欝病者が登場する。そして作者のインタヴィューを読むに付け共感は高まっていく。彼女の3冊の小説は複雑な共感を呼ぶ小説だった。僕が書こうとしている自伝的小説に何らかの形で影響をするのではないかと思われる、それは文体であったり、謎、嘘、何冊かを読むことで結び付く複雑な嘘の世界。3冊目を読んでようやく僕は共感を得ることができた。始めの2冊は共感を呼びはしなかったが強烈な印象を僕に与えた、そして3冊目にすべてが解き明かされた時何とも言い様のない共感がわいてきたのだった。いや、共感と言っていいのだろうか、何一つ僕の経験したことのない内容に共感のしようが何処にあるというのだ。これは共感ではないかもしれないが心を揺さぶる何かではあった。

 午前10時30分:洗濯をしながら「ソフィーの世界」の続きを読み始める。僕が書こうとしている自伝的小説の要素は「嘘」と「夢」=「妄想」かも知れない。それをいかに本物らしく見せるかと言うところに哲学的テクニックが必要だ。


7/21

 宮本武蔵「五輪書・水之巻」を読む:とにかく人を殺す方法を、とにかく人に勝つにはということを連綿と書いている。恐るべき也。とは言えそのために、とにかく「能能鍛練有るべき成り」と言い続けているところに何をするにしても一生懸命やらねばならないことは伺える。それにしても恐るべき也。

 宮本武蔵「五輪書・火之巻」を読む:機先を制すること・有為な立場を取ること・後手に回らぬこと・難所を越すということ・むかつかせること・脅かすこと・うろたえさすことなどなど、しごくもっともなる勝つための手段を思い付くままに歌い上げている。

 宮本武蔵「五輪書・風之巻」を読む:他の流派を知らないで自分の流派ばかりを鼓舞しても井の中のかわずであるということ。されどどの流派も欠点を持っていることを書いている。結局いずれの流派も片寄っているからそんなことにかかわらず全体を知るべしで有ると言っている。なるほどもっともである。

 宮本武蔵「五輪書・空之巻」を読む:二刀一流の奥技を記しているのだがまるで般若心経の色即是空その物である。

 宮本武蔵「兵法三十五箇条」を読む:刀の持ち方から、足の運び方、目の付け所、間合いの取り方、心の持ち方など35項目の極意が記されている。間合いの取り方では「己の刀が届く距離は、相手の刀も自分に届く距離である」ともっともな具体的なことを述べているかと思えば、「気の持ち方は水のごとし、されど水とは一滴の水もあれば大海の水もある」と禅問答のようなことも言っている。

 「我事において後悔をせず」(宮本武蔵・独行道 二十一箇条より)

 宮本武蔵「五輪書」を読み終えてすぐ、アインシュタイン「相対性理論」を読み始めた。何を言っているかは分かる?のだが、その原理を導きだす過程の数式にはついていけない。むつかしー。電子工学を目指し大学を出たけれども、相対性理論による、マックスウエルの方程式とローレンツの力の定義式が本来独立のものでないという説明がちんぷんかんぷんである。やっぱり僕には電子工学も物理学も数学もあわないんだと納得せざるを得ない。途中でほうりだして吉本ばななを読むことにする。

 僕は名前にこだわる。特に小説なんかはタイトルがかっこいいとつい買ってしまう。「ながれよわが涙と警官は言った」なんて最高にかっこいい。「風の歌を聞け」なんてのもかっこいい。そして「人間失格」「青春の門」「銀河鉄道の夜」「風の叉三郎」「豊嬢の海」なんていうのもかっこいい。だから僕の書こうとする小説のタイトルにもすごく気を使うし、ペンネームもどうしようかと悩んでしまう(いまだに決まらない)。「1.9lの魔法びん」と言うのはなかなかかっこいい(粋な)タイトルだと思う。


7/22

 吉本ばなな「パイナツプリン」:何だか良くわからん、小説とは全然違った文体でふつーの女の子じゃん。

 村上春樹「カンガルー日和」へ突入。女は突然他愛もない哲学的な質問を男に向かって問い掛ける。男はさも当然という感じで、もっともらしい説明をする。その実はそのことについてもっと勉強しておけばよかったと思いながら、悟られないように返事をするのだ。そして女は「ふーん」と分かったような返事をするのだ。いつもそうだ。全くパパは何でも知っているだ。

 村上春樹「眠い」を読む:やられたーと言う感じ、眠いということをここまで表現した村上春樹に脱帽。かつて、雨が降り続ける恐怖を語ったSF小説を思い出す。それは延々と身体をうち続ける雨の重みを感じさせ絶望的な恐怖を起こさせた小説だった。それは実感ではなく体感だった、身体がまさにそうだよなーと感じてしまうそんな文章だった。

 午前8時30分:今日目が覚めてからすでに3度目の食事をする。余程おなかがすいたようだ。今週の前半は朝早くに起きて散歩して健康的な生活だったけれど、後半不規則な生活になってしまって残念だ。

 僕はここ数日本ばかりを読んでいる、そうせざるえないのだ。そして本の至る所で触発された感情をこうして書き付けている。でもいつもまとまった文章にもならなければ小説になんかなるはずもない。そこでいよいよ焦って本を読むのだ。

 そろそろ食料の買い出しに行かなければならないのだが、少しも外出する気になれない。外は雨が降っている。

 村上春樹「カンガルー日和」を読み終える:結局「眠い」が一番だった。後はどうって事無いわけの分からない短編ばかりだった。ただ「風の歌を聞け」から「ダンス・ダンス・ダンス」までの物語にかかわりがありそうな短編が興味深かった、あんなふうにこれが膨らんだり変化したんだ。それにちょっと吹き出してしまいそうなハードボイルドの短編があったりで、結構楽しめたことも確かだ。ちょっと不思議な村上春樹ワールドだった。

 午後0時:眠くなってきてしまった。雨が止まずに昼だというのに夕方のようだ。アドルフ・ヒトラー「わが闘争(下)」に突入。選挙のために公約をでっち上げる政党・政治家に対する痛烈な批判がヒトラーの口から飛び出る。まさに今回の参議院選挙もかくごとしかなと言った気分だ。


7/28

 午前9時:ようやくヒトラー「わが闘争(下)」を読み終わるほとんど今週一杯かかって読んだことになる。辛かった。一つの文章が長いうえに、肯定しているのか否定しているのか分かりずらいために同じところを何度も読み返してしまった。大方は何を言っているか分からなかった、何となく理屈っぽく理論的には見えるのだだが結局何が言いたいか分からなかった。仕方がないので歴史群像シリーズの「アドルフ・ヒトラー」を買って読んでみることにする。


7/29

 高千穂 遥「ダーティペアの大脱走」:読み終える。もうなんたってヒトラーと偉い違いであっという間に読み切れてしまう。本の分厚さだって同じくらいなのにどうしてこうも違うのかねー、現代人の文章と少し前の時代の人の文章てのはこうも違うのかねー。一日の出来事をあっという間のスリルとサスペンスでもって読ませてしまう。おまけに文体は「あにいってんのよー」てな具合で軽快軽快。読後感も爽やかにでも共感とか感動と言ったものとはちょと違う。でも面白かったー、面白ければいいって言うもんだって気がする。

 アルビン・トフラー「第3の波」へ突入。


7/31

 午前3時:目覚める、アルビン・トフラー「第3の波」を読む。色々な示唆があり現代の構造・文化・自分の成したいことについて考えさせられることが一杯出てくる。でも具体的にどうすべきかはまだ現時点では見えてこない。唯一言えるのは、一般社会の中で多くの誰もが、自然に自分の置かれている立場を受け入れている様に見えると言うこと、(疑問を抱くことさえないのではないだろうか?)僕はそのまま受け入れたくないということだ。(常に本質を見る努力をすること・疑問を持つことと言えるだろう)つまり僕の今後の生き方とか、書こうとしている小説というのは、現代を意識しながらも、第3の波を意識したものにしたいということになると思う。ヒトラーの「わが闘争」にしても、トフラーの「第3の波」にしても、一般大衆がいかに盲目的であり、せつな的であるかを語っている。僕はその一般大衆でありながらいつもその枠から飛び出したいと思っているのだと思う。


 村上春樹の「ねじ巻鳥クロニクル」が駄作で有るという本が出版されていた。読んでみると色々な箇所を挙げて必然性がないとか幼稚であるとか批評しているのだが、同じところを僕は必然性を感じたし共感を得ることができた。例えば主人公が新聞もテレビジョンも持たない事が不自然であると決めてかかっているが、現に今の僕はそのいずれも持っていない。結局、その批評は僕自身に対する批評となって僕にのしかかってくる。


8/1

 安原顕:「本など読むな、バカになる」を読む。昨日も書いたが、村上春樹をぼろくそにこき下ろしている。途中あまりの不快さに本をほうりだしてしまった。些細なことを一つずつ取り上げては揚げ足取りのように批判しているとしか思えない愚劣さ、僕自身をあざ笑っているような気分になり腹立たしく悲しかった。三部に別れた第一部をなす村上春樹のこき下ろしは何とも納得の行かない批評だった。もう読まなければよいのに我慢して読んだ、反対意見にも耳を傾けるべきであると思ったからだ。だが2部から3部を構成する色々な本の紹介・批評はがらりと変わって参考になり面白く読めた。もっとも紹介しておきながら資料がないだの、忘れてしまったのと肝心の内容がない箇所には腹が立ったが、大筋はなかなか参考になるものだった。なぜなら、彼は一日に2冊は本を読んでいるということ(僕には2冊は読めない)僕のほとんど読んだことのない本ばかりを紹介していること、小説はかく有るべしという筆者なりの持論があること、などから、興味を抱かせたのだ。

 「小説は新聞の三面記事とは違い、実際に起こった不可解な事件や人物をただ書き連ねただけではダメで、「なぜその時そうなったのか」を、深く突き詰めて考え、しかもそのことを、ある主人公を通して描ききらなければならない。・・・聖俗、美醜、善悪などを敢て逆転させ、悪を徹底的に書き込むことにより、読者を「悪」の魅力に目覚めさせ、ひいては「聖とは、美とは、善とは何か」を改めて問い直させるような小説・・・善悪両面を内包した人間を描いてこそ「傑作」なのであって、世に「傑作」といわれる小説が少ないのは、そのことがいかに至難の技かの証明であり・・・小説とは、言ってみれば「嘘八百」の世界、つまり、ある作家が何処まで創造力を羽ばたかせるかにかかっている。」とは安原の言である。以上の観点からいうと、村上龍・吉本バナナ・アゴタクリストフはそれに叶っていることになるらしい。そのほかにも彼が掲げる幾人もの作家は僕の知らない作家ばかりだった。ここは素直に彼が推薦する作家を読んでみようと思う。いずれにしろ不愉快ではあったが、ドキッとさせられ・考えさせられる本ではあった。しかし最近読んだ宮崎駿の文章に「一人の人間に構築できる世界なんてたかが知れているよ・・・」というのがあった。宮崎駿の世界は好きだし純粋な感じだけど彼自身はかなりの偏屈者らしい。やれやれ、うんざりすることばかりだ、小説を書く自信も揺らいでくる。

 僕自身が持っていると思う才能とか、観念を一度打ち壊してしまう必要を感じる。そして再構築するのだ、そのためにももっと一杯色々な本を、他人の考えを、作家の持つ技術を一度吸収しなければならない。


8/5

 トフラー「第3の波」読み終える:ヒトラー「わが闘争」同様読み終えるのに時間がかかる。なぜこの手の本は時間がかかるのだろう。まそのことは置いておくとして。この本が執筆されたのは1980年である、今から15年も前の著作である、にもかかわらずなんと示唆が多く、現状を的確に捕えていることだろう。もっと早くに読むべき本であったと思う。今彼の言わんとする第3の波は確かに僕の周りにも波頭を挙げて覆いかかってきている、これにどのように対処すべきか。いつも意識しておく必要がある。


8/6

 ブコウスキーの短編「町でいちばんの美女」を読む:まだ1作しか読でないからどうとも言えないが、安原顕やビートたけしが絶賛する程よいとは思わない。続けて5作読む:何だか身体が腐っていくような不快感と、どうでもいい倦怠感と、奇妙なエクスタシーを感ずる。唯々汚らわしい汚物を見ているような気もする。安原顕もビートたけしも最低だ。さらに8作読む:ブコウスキーは郵便局に勤めながら作家活動を行なっていた。郵便局員、それは堅い真面目な印象を受ける、彼の文体にそぐわない感じだ、何かとんでもないところで大切なものを秘めながらわざとねじ曲げているそんな感じがしてきた。さらに3作読む:耐えきれなくなる。短編を全部読み終える:何ともすっきりしないむかつく気分になった。「人魚と交尾」は何となく惹かれるものがあった。「卍」はすべての短編とムードを異にしていて面白かった。いずれにしろ訳者すらむかついているらしいのだむかつかないはずがない。とにかく退廃的で、過剰なまでの汚物・としゃ物・汚いセックスが全編にあるのだ。昨日この本を本屋で見つけたときの喜びがこんなふうに裏切られるとは思わなかった。安原顕の言うことは当てにならない。


 村上龍「海の向こうで戦争が始まる」へ突入する。話がずるずると長くいつの間にか登場人物が変わっている、映画の映像的流れを模しているようにもみえる。変なストーリー展開だ。何か自分の中のものが崩れていくのを感じる。自信がなくなり不安な気分がやって来た。

 今日は変な夢を見た、母が草刈り機のような飛行装置を使って空を飛ぼうとするのだ。そしておっこちた、僕は慌てて探すと母はにっこり笑って「だいじょうぶだよ」と現われた。


8/7

 午前12時45分:村上龍「海の向こうで戦争が始まる」を読み終える。僕には村上龍の良さがさっぱり分からない。ただし本文ではなく後書きの「大事なのはね、三作目だ・・・処女作なんて体験でかけるだろ?二作目は、一作目で修得した技術と想像力で書ける。体験と想像力を使い果たしたところから作家の戦いは始まるんだから」というリチャード・ブローディガンの台詞が重くのしかかって来た。


 村上龍「コインロッカー・ベイビーズ」に突入。村上龍の三作目の小説だ。出だしは衝撃的で快調に進んでいく。コインロッカーで発見された二人の少年がどうなっていくのか心配だ。「コインロッカー・ベイビーズ」は不思議な物語だ。感動とか共感とかじゃなくて、そうだリアリティーが有るんだと思う。読んでいると何かがむしょうにしたくなる、そう文章をむしょうに書きたくなるような、そんな衝動を起こさせる不思議な刺激がある。″何かしたい、何がしたい?、何かしたい、何がしたい?・・・″としばらく僕はぶつぶつしゃべっていた。

 「僕は小さいころから運動が苦手だった、小学生の頃逆か上がりができなくて、授業後に一人で練習したことがある。中学・高校と運動倶楽部に入ったけれども続かなかった。大学生になってワンゲルに入ってからはなぜか辞めずに続けることができた。倶楽部では毎日5時からトレーニングがある。ランニングコースにアルファベトの名前が付けられている「A,B・・・」と言う具合だ。その日のコースは幻のFコースだった、一番長いコースだ、環状線沿いの舗道を南にまっすぐ走って、いくつも鉄道の高架下を潜り緑地公園まで走るのだ。とても長くて苦しい。一年の頃はいつも遅れて先輩に尻を蹴られながら走った。口からはよだれが流れ、肺は破れそう、心臓は早く打ち過ぎて飛び出しそうになる。何とか緑地公園についてもすぐに柔軟体操・うさぎとび・スクワットなどが待っていて、それが終わるとまた今来た道を引き返さなければならない、地獄のトレーニングと呼ばれていた。トレーニングが終わるともうクタクタでぶっ倒れる。死ぬほどのどがカラカラで腹がガボガボになるまで水を飲み、頭から水をかぶった。1年生の頃はずっといつまでもそうだった。ところが2年になると突然力が沸いてきたみたいに走ることができ、後輩の尻を蹴りながら走っていた。」(1.9lの魔法びんより)

 小説における「リアリティー」とはどう言うものか何となく分かってきたような気がする。まず僕は「リアリティー」=「共感」と勘違いしていた。「リアリティー」とはその言葉どうり「現実性・現実感・存在感」だ。ただしその「現実感」は、いかに非現実的なことを書いても得られうるものであること、同様にいかに現実的なことでも表現が悪ければ少しも「現実感」を得られないということだ。そして「共感」とは全く別物なのだ。「共感」=「一種の感動」が得られなくても「リアリティー」のある小説は迫ってくるものがある、そしてそれが必ずしも「共感」でないにしても何かを感じさせるものとなりうるのだ。そうなのだ、小説とはいかに非現実的なことにリアリティーを持たせるかということが大切なんだ、命なんだと分かった。そこに共感を埋め込むことができれば傑作が出来上がるに違いない。読者は非日常的な世界を小説に求めているのだ。でも決してリアリティーだけの小説は真の傑作とはいえない。またリアリティーが引き出す問題提起がいかに深遠なものでも傑作にはなりえない、そこに共感できる何物かがなければ傑作にはなりえないのだ。

 僕の中には、何物をも否定しようとする何かが潜んでいる。それは自分を含めてなのか含めないものなのかは分からない、ただひたすらに違うと思うものがあるということだ。その結果カウンセリングの先生が指摘したような挑戦的な個性が表出するのではないだろうか。僕は何に反抗しようとしているのだろう。自然に対侍する時そんな感情は沸いてこない、人に物に、色々なものに対侍する時その反抗心が僕の裏側に潜みにじみ出てくる。実は僕はもっと自分が素直な人間だと思っていた。でもここ数日色々な本を読んだり先生と話したりした結果の自分を振り返るとそうではない自分が浮き上がってくる。それは以前から予感するものでもあった、しかし、どうしてそんな反抗的な自分が形成されなければならなかったのか、それを突き止めたいと思う。僕は両親を尊敬しているし憎いと思ったことなどない、事ある事に感謝さえしている、だから両親とのかかわり合いから形成されたとは思いたくない、自分自身が勝手に何かのきっかけをもとに形成したのだと思いたい。それとも、こういった反抗心は僕に限らずすべての人間が本能的に持っているものなのだろうか。いずれにしろ僕にとってこの感情こそが僕の毒の部分だという気がする、だからそれを理解して僕のコントロール下に置きたいのだ。

 安原顕を読みブコウスキーを読むことによってエネルギーを奪われ元気を無くした僕だった。村上龍の「海の向こうで戦争が始まる」ではこの気持ちの沈みを回復することはできなかったが、同じく村上龍の「コインロッカー・ベイビーズ」で何とか気持ちを上向けることができるようになり、小説に必要なものが何で有るかを感じる事さえできた。今の僕にとって小説は、一喜一厭のもとであり、読む順序が非常に重要になっている。何でも読めばいいって言うものではないのだ。何を感じるかがとても大切だ、感じるためにはある種の順を追う必要がある。そういう意味では今まで読んできた順序というのは偶然とは言えとっても大きな意味を感じさせる。

 でもどうして小説の中にはこんなに、狂気が一杯なんだろう。どの小説を取っても必ず狂気がある。平凡な物語は評価されない。人間すべてが狂気を持ち合わせているからなのだろうか。三島由紀夫も・太宰治も・宮沢賢治も・村上春樹も・吉本ばななも・ブコウスキーも・アガタクリストフも・村上龍も全員狂気を小説の中で表現している。僕も小説を書くからには狂気を描かなければならないのだろうか。もしかすると狂気とはある種の純粋さの現われなのかも知れない。

 宮崎駿の毒(狂気)について:彼の作品は爽やかで感動的である、そう上辺だけを見ればそのとおり。しかし彼の作品は人殺しが何とも簡単に行なわれる、それも少女が人を殺してさえ必然性を感じさせてしまうくらいの爽やかさだ。今まで僕は気がつかなかった、彼のインタヴューを読むまでは。彼のインタヴューで彼はとんでもない毒気を持った人間像を僕の前に示した。しかし彼の作品からはその毒気は臭ってこない。大抵がすばらしい感動・共感を与えてくれる、あの毒気を持った宮崎がいかにしてその毒気を感じさせないで我々に感動を与えてくれるのだろうか。何処に彼の狂気は隠されているのだろう。

 村上龍・吉本ばななを読んで感じる毒気は強烈なものがある、そして初期の村上春樹にも似たものがある、ところが最近の春樹には毒気が乏しく感じてしまう(村上龍を読めばなおのこと弱く感じる)安原顕はそこのところを言っているのだろうな。

 「自分が最も欲しいものは何かわかっていない奴は、欲しいものを手に入れることが絶対にできない。」(村上龍「コインロッカー・ベイビーズ」より)コインロッカー・ベイビーズを200ページほど読んだところで僕は非常に情緒不安定になった。この本には何か異様なパワーがある。僕の心の内で渦巻いているものは何だ、共感?いいや違う何かもっとせつないものだ。リアリティーとか必然性の本質をもっと突き止めなくちゃならない。


8/8

 午前7時45分:村上龍「コインロッカー・ベイビーズ」(上)を読み終える。息苦しく感じる部屋が汗臭い、部屋中の窓を開け、蒲団とカーペットを干した。蝉の鳴き声がどっと入ってきた。これが文学なのか?文学なのかも知れない、そう文学なんだろう。

 鳩が庭の山桃の木に巣を作っていた。″クックウ・クックウ″と鳴いている。洗濯をして掃除をした。まだ汗臭い臭いが残っている気がする。

 午後11時45分:村上龍「コインロッカー・ベイビーズ」(下)を読み終える。圧倒的なパワー、そして想像を絶する非現実世界、不思議なリアリティー。むんむんするような駅のコインロッカーにまさに熱気でむせ返り泣きわめいている生まれたての子供がいるような気がする。すごいと思った。ぐいぐい引き込まれていく。読み終えた今の気持ちは素直に感動であるとはいえない、しかし心をつかむものがある。例えるなら「アキラ」を読んだときの興奮に通じるものがある。それは決して「風の谷のナウシカ」を読んだときの興奮・感動とは異質のものである。僕には書けないだろう世界だ。しかも安原顕日く最近の作品はもっと過激になっているという。確かに評価されるべき作品であり、多くの人が絶賛するのもわかる、安原顕がひたすら村上龍を絶賛する理由もわかる。でも僕はこんな小説は書かない。大いに参考にはするけれども僕が書こうとする目的がそもそも違うのだ、僕の目的は甘っちょろい物かも知れない、しかしここまで破壊的な作品は僕には書けないし書きたくない。まだ僕には何を書くべきかがわからない。


8/9

 オーソン・スコット・カードの「神の熱い眠り」へ突入。がらっとムードが変わって、僕になじみ深く・優しく・思慮深いストーリーテリングが始まった。心地良さのうちにまた眠ってしまう。


8/22

 午後4時:ようやく目覚め本の続きを読む。司馬遼太郎「峠(下)」読み終える:おやじの進めで読み始めた、上下巻読み終えるのにほぼい一週間かかってしまった。やはり時間がかかってしまう。信念・見通す力・美意識・矛盾・日本人、色々なものを感ずる、父は継之助の生き方に共感を得たという。高校時代に使った日本史年表を見ても継之助の名は出てこない。最近買った大日本史に数行記載があるのみだった。僕自身この本を読むまで河井継之助という人のことは知らなかった。こんな人が明治維新の時にいたのだ。彼のものの考え方、生き様は色々と共感を得るものがある。小説としてみた場合僕の書けそうなスタイルではない。


8/23

 オーソン・スコット・カード「ワーシング年代記(1)」を読み終える:実は期待したほど面白くなかった。カードの作品はそのストーリーテリングといい、感動場面といい僕の好みなのだが、今回は読み辛く、感動もなかった。それに僕の一番好きな「死者の代弁者」を訳者は糞みそにけなしている点も嫌だった。自分で小説を書こうと本気で思い始めてから感動できる作品に出会えなくなってしまっている。これは自分ならどう書くだろうという思いが絶えずあることと無縁ではないだろう。

 吉本ばなな:「メランコリア」を読み終える:不思議に込み上げてくるものがある。彼女の作品にはいい様のない心を締め上げるような何かがある。思い出してしまった。かつて大学一年だったころ2回目のデートで初めて彼女の肩に手をやったとき、彼女は「僕らしくない」と言った。僕はすぐ肩から手をどけてしまった。なぜあの時「そんなことないさ」と言って彼女の肩をしっかり抱けなかったのかと。人生は悲しいことがあって初めて喜びがわかる。小説も喜びだらけの内容には感動はない、何らかの悲しみ・せつなさがあって初めて喜びを増複できる。


8/24

 午前1時:吉本ばなな「アムリタ(上)」を読み終える:淡々と日常が語られ、少しオカルトチックな話が仕掛けられている。「あんなすごいことが起こったのに、単に私が私としてだらだら生き続けて何時か死んで行く、そういう流れの中に自分の中でいつの間にか自然に溶け込んでいる。日常というものの許容量とは、恐ろしいものだ」「何かしてやりたい。どうして人は人に対してそう思うのだろう。何もしてやれないのに」「私の心と言葉の間には、決して埋められない溝がいつもあって、それと同じくらい、私の文章と私の間にも距離があるはずだ」「時間は生き物だ・・・夕日・・・1日は1日を終えるとき、何か大きくて懐かしくて怖いほど美しいことをいちいち見せてから舞台を去っていくのだ」「いろんな人にいろんなことを言われるかも知れないが、自分の身体から声をだしている奴以外の奴は、どんなにもっともらしい事を言っても、わかってくれても信じちゃだめだよ。そういう奴は苛酷な運命を知らないから、嘘の言葉でいくらでも喋ることができるんだ」以上上巻から感じたフレーズ達だ。


8/25

 午前2時15分:吉本ばなな「アムリタ(下)」を読み終える:切なさ、はかなさ、喜び、癒し、色々な言葉が浮かんでくる、何ということもない話なのに何処か訴えてくるものがある、やはり吉本ばななはただ者ではない。「失うものができると、初めて怖いものもできるんだね。でも、それが幸せなんだね。自分の持ち物の価値を知ること?」「感傷的になるのは、暇だからだ。精神的に弛緩していると、思い出が亡霊となって満ちてくる」「小説の産み出す空間の生々しさって言うのは本当に年月を超えるんですね・・・」「小説は生きている。生きて、こちら側の私たちに友人のように影響を与えている」「ああ、なんて人間てばかばかしいんだろう。生きていくということや、懐かしい人や場所が増えていくということはなんてつらく、切なく身を切られることを繰り返していくんだろう、いったいなんなんだ」「ふだん寂しいと思いたくなくて無理して麻ひさせていた感覚が、一つ一つ開いていくのが目に見えるようだ」捕え所がないような頼りなさ、不安定な感じが全編にあってかつ、ずっしりとのし掛かってくる人の生のようなものを感じさせるそんな話だった。何度も胸を締め付けてくるものがある、淡々と語られる一人の女性のある一時。不思議な浮揚感をもって読み終わった後も何か失いたくないものをそっと手に包んでいるような気がしてくる。


 午前8時:「パパラギ」2回目読み終える:色々な本を読んだけれどもこの本はどの本とも異なった異色の本だ。色々いい本はあったけれども友人にお進めの一冊となるとどうしてもこの「パパラギ」になってしまう。今回米さんと大塚さんにこの本をあげようと思ってまた読み返してみた。何度読んでも笑いと同時に考え込まされてしまう。「沢山のものがパパラギを貧しくしている」「パパラギには暇がない」「パパラギの職業についてーそしてそのため彼らがいかに混乱しているか」「考えるという重い病気」等々。自分がどっぷりつかっている現代社会、これを見事なまでに別の純粋な視点から捕えて批判し警告している。そのままこの本に出会わなければ考えもしなかった自分の置かれている状況、読み返してみて久しぶりに考えさせられるショック。なんのために仕事をしているのだろう、なんのためにこんなにも色々なことを考え悩んでいるのだろう、そんなことに気がつき、今一生懸命の自分がばかばかしく見えてくる。そしてこの本に出会わなければ気がつきもしないだろうこのショック的な何かを友人達にも伝えたいそんな思いが、幾人かの友人ににこの本を送ってきた。僕が思っているほどには誰も何も感じないのか何もこの本について言って来ない、でもこれからもこの本を友人達に送ることだろう。


8/26

 午前3時10分:久しぶりに「風の谷のナウシカ(全7巻)」を読む。神秘な、神々しいまでのナウシカの姿が、1ページ事に悲しい、胸をしめあげて来る。最後の最後が物足りないけれども善くできた物語だった。宮崎駿の毒気は最終巻の7巻目にようやく発揮されてくる。今までナウシカが身体で感じてきた腐海の成り立ちは、地球を汚染してしまった先人達によって作られた生態系であること、さらにはその毒のある生態系に人類すら改良が加えられていたというショッキングな結末。結局彼らは清浄の地には住めないという逆説的な結果になる。欲と野望に満ちこの世の生成の謎を説くことを目的とした幾多の無残な戦闘はいったい何だったのか。細々と腐海のほとりに生きてきた辺境の氏族達の営みは何だったのか。「青き衣をまとい金色の野に降り立ち、蒼き清浄の地に導く」という伝承は何だったのか。すべてが虚しく悲しく思えてくる結末。最後まで読み通すと残酷な結果が待っていた事に気付き寂しくなる。しかし全編に流れる、勇敢で癒しの心を持った出来事の数々には幾度も胸を締め上げられ感動があった。閃光と虫笛だけでオームを静めるシーン、テトと打ち解けるシーン、オームの暴走を静めるシーン、しょう気を吸った兵隊を助けるシーン、単騎でドルクの兵をけ散らすシーン、敵だった皇帝を昇天させてしまうシーン、そしてユパの壮絶な最後など、涙無くしては読めない。常に彼女の行動は献身的で捨て身だ、それを見ていた周りの人々が「この人はただ物ではない」と語るあたりがうまく、ナウシカの魅力を倍増している。またかつて栄えた巨大産業文明が火の7日間で滅ぼされ、地上は有毒の瘴気を発する巨大菌類の森・腐海に覆われていたという状況設定・辺境諸属の風俗描写・ガンシップ・鳥馬・巨神兵の存在なども見事だ。腐海の描写や、各飛行艇のスタイルも独特なものがある。良く一人の力で異境の世界をここまで構築したと感心する。宮崎駿の世界はいつもドラマッチックでスリリングだ。映画の世界は簡潔でテーマもストレートだ、でもコミックの「風の谷のナウシカ」のテーマは意味深長で奥深い。単なる文明批判でもなければ、反戦物でもない。人間愛だろうか、何だろう。神話的趣がある。そして小説では味わえない映像美がある。

 午後9時:村上龍「イビサ」を読んでいる:のっけから性衝動を刺激する話の展開。何だかこうもして本を読む必要があるのだろうかという気がしてきた。


8/29

 村上龍の「イビサ」を読み終えていたが:なんの感動もない、世の中にはこういった破壊的な物語を好む人(安原顕の様に)がいるということはわかったが僕が求めているものではない。「コインロッカー・ベイビズ」は非常にスリルングで引きつけるパワーとストーリーに魅力が合ったが「イビサ」にはそういうものがなくだらだらと物語が進んでいくだけだった。村上龍より春樹の方が面白い。

 オノ・ヨーコ「ただの私」を読み終える:「三島由紀夫は、自分の作り上げた幻想の中で死んでしまった」「女性の中には、男性と平等になろうとして、社会の中で男と同じ賃金を要求してみたり、社長になろうとしている人もいるが、それでは既成社会を認めてしまうことになる」など、女性の社会的地位や女性の優秀さを強く目指している。男性日本沈没などは、痛烈な男女反転の世界感なのだがこきみ良く読めた。いずれにしろ「世界で一番有名な未亡人」「ビートルズを破壊した女」など色々な名前をつけられつらい目や、命の危険すら幾度となく味わってきただろう一日本人女性の数寄な生き様は感ずるものがある。いまだになぜジョンがヨーコを愛したかまだわからないが、非常にパワフルで、自信に溢れた人生を送ってきたことはわかる。


 友人達にプレゼントするために「パパラギ」を3冊注文してきた。


8/30

 江戸川乱歩の短編集を読んでいる。米さんが推薦した本だ、なるほど楽しい。一つの事件を誰かが明快な推理で解決する。まさにそうなのだと思わせるのだが、もう一人が現われて全く違った推理をしそれこそが本当の結果だったという形(どんでん返し)、一つのスタイルと言ってよいだろう。それもミステリアスで奇怪でつい引き込まれてしまう。文体は少し古く江戸弁というのだろうかだがすぐに慣れてしまう。本文にもある通り「・・の雄弁な話振りを聞いていますと、それらの犯罪物語は、まるで、けばけばしい極彩色の絵巻物のように、底知れぬ魅力をもって・・の眼前にまざまざと浮かんでくるのでした」とは乱歩の作品その物のことを言っているようである。そして犯罪というダークな側面を扱っているにもかかわらず、謎解きを主体とすることで能天気なまでに明るい大らかさを形成しており、ダークで破壊的なパワーは感じさせない救いがある。


8/31

 午前11時30分:井上靖「天平の瓦」を読み終える:大塚さん推薦の書である。文章が難しく聞き慣れない言葉が多いので読みずらかった。「われわれといえども、自分の仕事が本当に根付くかどうかわからない不安は、いつも存在する」という解説の言葉に重みを感じた一冊であった。少し雨が降ったようだ。


9/1

 北杜夫「にれ家の人びと(上)」に突入。面白く読むにはその登場人物に感情移入できなければならない。時代が違うのだろうか、井上靖の「天平の瓦」も北杜夫の「にれ家の人びと」にも、どうもしっくり行かない感情移入ができないのだ。その点村上春樹や吉本ばななの作中人物にはあっという間に感情移入ができてしまう。多分に好みの問題ではあるのだが。感情移入とはどういうことだろう、これこそが共感のもとだと思う。そのためには作中人物の人となりが好きになれなければならない。嫌な性格の登場人物なんか好きになれるわけがないし、いったい何でわざわざ嫌いな人間に付き会わなければならないだろう。


9/3

 北杜夫「にれ家の人びと(上)」読み終える:「一体、歳月というのは何なのか? その中で愚かに笑い、あるいは悩み苦しみ、あるいは惰性的に暮らして行く人間とは何なのか? 語るに足らぬつまらぬもの、それとももっと重みのある無視することのできぬ存在なのであろうか?・・・「時」とは一体何なのか? それは計り知れぬ巨大な円周を描いて回帰するものであろうか?それとも先へ先へと一直線に進み、永遠の中へ、無限のかなたへと消え去って行くものであろうか?」「実際さまざまな事件が起こる。どこの個人の家庭でも、世間全体でも、広い何処か名も知れない世界の涯においても。だが、それは起こるのが当たり前なのだ。そもそも事件が起こるのが世間であり世界というものではないか。その関連を、余分なものを排除して一筋につながるその過程を、人々は見分けることができない。・・・ましてすべてを不可思議にあやつってゆく「時」の流れを確認することはできない。そもそも「時」はそんな事件とは関係がないのではないか? だが、何はともあれそれは動いてゆく。移ろってゆく。一刻また一刻、とどめることもできず、あらがいがたく、ぼう漠とまた確実に、何事かを生じさせて行く。一体どこへ向かって? 誰がそんなことを知ろう。誰がそんなことをわきまえよう。」


9/5

 午後5時:北杜夫「にれ家の人びと(下)」読み終える:なんとこの小説を三島由紀夫は絶賛している。「戦後に書かれた最も重要な小説の一つである。この小説の出現によって、日本文学は、真に市民的な作品を初めて持ち、小説というものの正統性(オーソドクシー)を証明するのは、その市民性にほかならないことを学んだといえる。・・・これこそ小説だ」とは三島由紀夫の言葉である。僕にとってこの作品は特にそこまで言える作品かどうか分からなかった。大勢いる作中人物の一人として感情移入できる人物がいなかったからである。しかし解説にもあるように「従来の作品は、常に一貫して「人生いかに生くるべきか」のモラルへの探求があり「ある自己」より「あるべき自己」への激しいしょうけいがあり、自己嫌悪や現実否定の姿勢を含み、現在を脱出して耐えずに未来に生きようとする心組みを抱いていた。・・・皮肉(アイロニカル)に否定的であるかする視線であった。・・・つまり俗人性や凡庸性を愛したり、それに魅了することができなかったのである。」つまり感情移入できないほどの俗人性を持った作品であるからこそすばらしいということになる。そんなものかも知れない。でも僕はもっと感情移入できる人物を造りたい。とはいえ明治から昭和の終戦時期までの風物・情景描写はなかなかだった。正に年代記(クロニクル)である。

 大江健三郎「死者のおごり・飼育」へ突入。

 N・G・Oの演説にてヒラリー夫人は「自由とは政府意見と異なる意見も尊重されることだ」と述べたという。正に「第3の波」的発言だ。


9/6

 午後2時10分:大江健三郎「死者のおごり・飼育」を読み終える。大江健三郎を読んだ理由は、ノーベル文学賞をもらう作家とはどのような作家か知りたかったからだ。そして最近の読書の癖となってしまった、後何ページでこの話は終わるのだろうということばかり気にしながら読んでいた。今の僕は読書を楽しんではいない。結局大江健三郎から学んだものは何だろう。言うならば、作品は、一つの一貫した主題を持つべきであること、時代の代弁者となること、が作家として成功する鍵であるだろう事だ。(当たり前と言えば当たり前の事かも知れない)彼の場合の一貫した主題は「監禁されている状態、閉ざされた壁の中に生きる状態を考えることで・・・時代的に言えば一種の閉塞状態であり、存在論的に言えば「社会的正義」の仮構を見抜いたものの一種の断絶感である」と言うことになる。「人間の羊」は正にこのことを端的に示した作品と言えるだろう。僕が漠然と抱いていた自分の作品について足らなかったものが何であったか分かったような気がする。つまり「第3の波」でも取り上げているように、現代は大きな波に覆われて新しい時代を迎え受けるべく、錯綜する時代となっている。その時代の波の中であるいはのほほんとしながらも、実はその波に飲まれまいとして誰もが踏ん張っている。その踏ん張り方が分からなくて多くの人々が餓え・苦しみ・悩んでいる。そんなことを一つの主題として折り込めれば現代を描くことになるだろう。


 アルビン・トフラー「パワーシフト」へ突入。読み込むのに時間がかかるだろうけれども、きっと何か閃くものを与えてくれるに違いない。


9/8

 会社を辞めたい気持ち、小説家になりたい気持ちははっきりしている。でも先立つものとして家のローンの返済方法とその後の生活費の確保ができない。目処が立っていない。先生も同様に混乱していて何をアドバイスしてよいか分からなくなってきていると素直に教えてくれた。

 例えば彼女との別れについて分からない問題がある。先生はこの点を非常に重要視しているようだ。僕の病気の原点として考えているのかも知れない。僕の手記(ちょうど彼女が別れの手紙を送ってきた時の気持ちを綴ったもの)を読んでもなぜ彼女が去って行ったか知ることができない。先生は言う「彼女にとって夢のようなことを語っていたあなたが魅力的なのであって、就職が決まって現実的になったあなたには魅力が感じられなかったのかも知れないですね」と。「そういう意味では、今の、夢を実現しようとして悪戦苦闘しているあなたならまた魅力を感じるかも知れない」と。そうかも知れない、そうでないかも知れない。今の僕にはどちらであるか分からない。もしそうであったなら、夢を追い求める僕にこそ魅力を感じてくれる女性であったなら、正に彼女こそ僕が求めている女性ということになる。でもその彼女は今はいない、それが現実だ。

 さらに先生は言う。「初め話を聞いた頃はそんなに思い込むことはないじゃないかと思ったものです。でも色々話をして、色々なあなたの手記というか作品を見るに付け、あなたのことが分かって来ると、あなたの思いが分かってくる。一緒になって混乱しているけれど、あなたと合って話をするのが楽しく思える、夢を実現させてあげたく思えて来るのです」と。そんな先生の声援とも言える言葉を非常に嬉しく思いながら聞く。先生の言葉は自信を失い憂欝になってしまいそうな僕を元気付けてくれる。とにかく先立つものを何とかしなければ何も落ち着いて開始できない。それが先決であり、現状における最大の問題だ。


9/11

 アルビン・トフラー「パワーシフト(上)」を読んでいる。仕事をしている時代幾度か感じたこと、やろうとしてかなわなかったこと、つらかったことが沢山この本を読んでいて思い出された。僕は正に第3の波に襲われた会社の中で自分を見失い、やり所のない不安を感じてきたのだ。読んでいくとその時の苛立ちが蘇ってきて、どうしようもない苛立ちに似た悲しみが込み上げてくる。僕は、現代社会の波に飲まれ負けたのだ。例えば、ネットワークの重要性・可能性、またこれを実現するための手段の難しさが語られている。あるいは色々な問題に対処するための分科会的組織の発生と、その活動の成否、無力さなど。「パワーシフト」に書かれていることが一々もっともで、僕が会社で取り組んでなしえなかったことばかりである。悲しい。僕はそこから逃げ出したのだ。「パワーシフト」はいかにその問題を解決するべきか、その糸口を探ろうとするものだが、今の僕にはどれも不可能ななしえない問題ばかりに思える。


9/12

 「責任の分担を必要とされている職に申し分なく適しているとは限らない」「産業革命の重要なイノベーションは・・・労働者も交換可能とみなされた」事だった、しかし今や「知的労働者はますます取り替え不能になってきている」と語られている。僕は仕事をしている間、もし自分が欠けても仕事全体に支障が起きないように、気をかけていた。もちろん自分だからこそできることを見いだして喜びを感じもしていたが、たとえ自分がいなくとも誰かに置き換え可能であることを知っていた。それは事実だった。しかしトフラーは今後置き換えが不能な状況になっていくだろうと語っている。なるほどそうかも知れない、しかし企業はそこまで個人に依存していては危険であり、まだここしばらくは交換可能な状況が続くだろう。そして僕は交換されることを望んだのだ。


 堤玲子「わが闘争」を面白く読んでいる。ここにも作家になろうとあがき苦しんでいる一人の人間がある。そして自分の人生を切り売りしている。人称がめちゃくちゃで、文章も粗いし、ハチャメチャで糞尿に塗れているけれども、どこか悲しく美しい、そんな切ない一人の女性の生き様。なんかこれを読んでいるとふと思ってしまう、彼女が僕から去っていった理由が分からないうちは、僕は本当の恋愛を書くことなんてできないだろうと。僕はもっと真実を知り苦しまなければならないのだと。


9/13

 堤玲子の「わが闘争」読み終える。お話しは暗い内容なのに何か爽やかな読後感の残る一編であった。不思議な荒々しい文体は小気味のいいリズムがあって、妙にリアリティーがある。「歯切れ良く、暗くなりがちな内容を、悲惨な現実にのめり込むのではなく、それを見据えることで状況を突き抜けて、明るさを獲得している」と解説されているとおりの感がある。こういう小説も有るんだと思った。


 村上春樹の「遠い太鼓」を読み始める。なんとまあ春樹は自分の疲労のことや何やら、全く個人的なことを本にしている、なんて奴だ。それはそうと「秋味」は非常に味が濃く、うまいのかまずいのか分からない。くどい感じ、黒ビールのような感じである、1カートンも買ってしまったから、せっせと飲まないと仕方がない。せいぜい15日に森田・山・小山に飲んでもらおう。ところで、春樹は40歳という年に非常に重要な意味合いを感じているらしくて、それを確認するために3年間もの長旅をすることにしたという。僕が今38歳を一つのターニングポイントとして考え、40歳をもって生活を新たにしたいと考えている事と、どこか似ている。そして今僕は旅に全世界へ出かけたいと熱望している、それも春樹の心境と似通っている、春樹の文章が駄文であれ、傑作であれ、いつも僕の気分と似通っていることがとても不思議で、僕が春樹を読み続けるこれが全くの理由だと思う。


9/17

 村上春樹「遠い太鼓」を読み終える:「もしこの本を読んで、長い旅行に出てみたい、・・・と思われた方がおられたとしたら、それは著者にとっては大きな喜びです」と書いているけれど、結局春樹の長々とした独白に付き会わされたという感じが残った。


9/18

 先生が最後に言った言葉だった。「そういえば中村さんと話していても、日記を読ませてもらっても、あなたの悪い部分が一つも見えてきません」僕も「そういえば、僕の悪い部分をおもいっきって話してさえ、皆はお前の悪いとこが見えなさすぎる、もっと素直に悪い部分を出したほうがいいよ」という言葉をよく人から言われることを思い出す。僕の悪い部分て何だろう、僕はいい子ぶっているのだろうか、(そういう部分もないとはいえないと思う)まさか悪い部分のない人間なんていないし、悪い部分を出す時に気がつかないうちに自分でオブラートに包むようにしてしまうのだろうか。

 僕の悪い所とは?:僕は責任感が強い半面、だめとなると一切から手を引いてしまう所がある。全く無責任になってしまうのだ。あるいは人のことを気遣い過ぎるところが悪いところだと言われたことがある。もっと無神経に図太く生きなきゃと言われた。もっとほかに悪い部分がありそうだが、今この時点では思い浮かばない。その結果、相対的にはいい人になってしまうのだ。もっと僕の悪い部分・毒となっている部分を見つめたい。


 ミヒャエル・エンデがガンで亡くなった。(8月28日)今度は彼の作品を読んでみよう「モモ」「ネバーエンディングストーリー」など。彼は死に際に「こちらの世界はもう私を必要としない、あちらの世界へ行きたい」と言ったという。そして「自然に対する高貴な気持ちを忘れ、人々は貧しい心になっていってしまう」と語ったという。現実から逃げ出すためのファンタジーではなく、夢を叶えるためのファンタジーを描きたかったのだと言う。


9/21

 午前1時30分:アルビン・トフラー「パワーシフト(下)」を読み終える:読みながら色々な自分の今までの出来事がビンビンと蘇ってくる。彼に言わせると今や世界の勢力は、アメリカとEC諸国、そして正に日本に大きな力があるという。日本はその経済力をもって世界に何らかの貢献を望まれてるのだ。その半面世界は今まで以上の混乱の時期に突入し、ソ連の崩壊によって、多くの近隣諸国が核兵器を持ってしまった。正に恐るべき状況にあるのだ。中国とフランスが国際世論の強烈な反対を押し切って核実験を行なった。それほど自国以外の国が信じれないのだろうか、悲しいながら、信頼できるような状況ではない。どこの国も自信暗鬼に陥り自国だけの発展を願っている。そして今や日本とドイツが力を持ちかつての第2時世界対戦の不安を抱いている国が少なくないのだ。今僕は明治維新の時代にも似た激動の世界に生きているのかも知れない。その中で何をすべきなのか、何ができるのか? 職場にしがみつくことでは何もできずにただ消耗していくだけだろう。じっと一人静かに世界を眺めメッセージを世界に送ることができるなら、どんなだろう。話は変わるがECの統一は、先日読んだ村上春樹のヨーロッパでの生活を読むにつけ、非現実的に思えてくる。暗いイメージの英国人・何でも真面目なソイツ人・楽天的で無責任なイタリア人、余りにも国における国民性・生活・文化が違っている、それを統一することはいかに難しいだろうか。いかにECが統一されると強力になるか議論されているが結局無理ではないかと感じてしまう。日本もバブルがはじけ低迷している。アメリカも国内に問題を抱えている。地球連邦が成立するにはまだ時間がかかるだろう。しかしそれを目指して日本から世界へメッセージが送れたらと思う。自分の明日の生活もままならいのに、大きなことを考えているている自分。でもここで挫けてしまってはだめだと思う。呑気におおらかに何とかなるさと腹を決めて、自分の生きた証を立ててみたい。

 ところでパワーシフトの中でワンダーフォーゲルに関する記述があった。「1920年代のドイツで起こった青年運動で、いわばワイマール共和国時代のヒッピー・グリーン運動家達で、彼らは、ギターを抱え、草花を身に付け、ウッドストック式のフェステバルを開き、超俗性に心酔し、自然への回帰を説いた」のだそうである。なんとヒッピーだったんだ。でも「超俗性に心酔し、自然への回帰」と言うのは僕にぴったりだな。


 山口彰「楽天的に生きる人間ほど成功できる」を読み終える。「人間万事塞翁が馬」と言う言葉が出てきた。大金が入らなくてよかったのかも知れない。大金が入ったら僕はどうしようもない屑になっていたかも知れないのだ。しばらくは苦しい日々が続くだろうが頑張ってみよう、そんな気持ちになった。


9/25

 カウンセリングでは今の迷いとも言えない迷いを先生に打ち明ける。先生は「他人だったらまだもう少し引き伸ばしてもいいんでは?と言うところですが、もし私が両親だったら、中村さんのお父さんが言ったように、いつまでも引き伸ばしていてもどうにもならないんだから、ここできっぱりけじめを付けなさい。と言うでしょう」とアドバイスしてくれた。昨日までうだうだしていたけれど、今週けじめを付けようと決心した。今日はとりあえず寝て明日正常な時間に起きて、これからしなければいけないことを整理しよう。食料を買い出し、本も買いたかったけれど我慢して帰宅する。しばらく本は我慢しよう。先生も今の中村さんの読み方では消化不良を起こしてしまうのではないですかと言っていた。ある面で当たっている。


10/5

 村上春樹「ねじ巻鳥クロニクル(第3部)」を読み終えた。不満は沢山有ったけれど、何だか圧倒される気分で読み終えた。何となくほっとしたようなそれでいて、あれはどうなったんだ、これはどういう意味なんだと疑問も多い不思議な作品だった。でもここ数日の塞ぎ込んだ気分を幾らか紛らわせてくれたことは事実だ。会社を退職してすっきりして、未来への希望を抱いたのも束の間、急速に何もやる気がわかない醒めた気分がやってきて、自堕落に、食事も充分に取らない2日間を過ごしてしまった。


10/6

 午後3時30分:ミヒャエル・エンデ「モモ」を読み始める。空も雲ってきたし、洗濯物も乾いたようなので取り込む。今日は一日穏やかないい天気だった。明日へやの掃除をしよう。


10/9

 午後9時:ミヒャエル・エンデ「モモ」はすごい童話だ。人間の、いや正に僕が求めている「成功したい、ひとかどの人間になりたい、お金持ちになりたい」という心に見事なまでの警告を与えている。正にそれを願って会社を辞めた今、この本に巡り合えたのは運命としか言い様がないものを感じる。そして友人の大切さ、正にここ数日僕を訪れてくれた、多くの人達をいかに大切にすべきかを教えてくれる。本当に大勢の人が訪れてくれた、その有り難さを大切にしなければならないと感じる。もし今日「モモ」を読まずに、時間泥棒達のこうかつな手段と、彼に対持したモモの姿を知らなければ、僕はとんでもないうかつ者になっていたかも知れない。


10/10

 午後9時30分:ミヒャエル・エンデ「モモ」(時間泥棒と盗まれた時間を人間に取り返してくれた女の子の不思議な物語)を読み終える。面白かった、また本当に沢山の啓示があった。この本を読んで心から良かったと思う。人間として生きる上での喜びとは何か、生きている証とは何か、また欲望に目がくらみやすい現代人の陥りやすいわなとは何か、友達をいかに大切にすべきか、などが宝石をちりばめたように書かれてあった。″パパラギ″に劣らない目から鱗が落ちる思いの本だった。こういう人間の本質を問う物語と、トフラーの様に、現代の時代がどう動いているかを問う物語は、時として矛盾を提起するけれども、いずれも見失ってはならないものだと思う。そしてもう一つ、仕事は心をこめて誇りをもってすることだということ。そう、それはどんなに素晴らしい事だろう。しばらく僕はこのことをどのようにして人に伝えたらよいかを考えた。今度の組合の執行委員会で、今度のカウンセリングの場で。頭の中で言葉にしてみた、でもうまく伝えられそうもなかった。そこで僕はもう一つのエンデの作品「はてしない物語」を読み始めた。


10/16

 午前5時:ミヒャエル・エンデ「はてしない物語」を読み終える。あるがままの自分を愛することその大切さを語った物語だった。そしてこの数日の出来事こそ、僕にとってのはてしない物語の冒険だったような気がする。そして僕は現実の世界へ戻ってきた。あるがままの自分を、人を愛せそうな気持ちを抱いて。


10/17

 午後9時30分:福永法源「すべてを変えるパワー人間力があった」を読み終える。「先への不安。過去への後悔、そのような無益なことをいつまでも考えていない自分になることだ。あるがままを受け入れる自分になることだ。現実をそのままの形で肯定できるようになることが重要であるのだ」と書かれている、ここまでは数日前に痛感し体感したことだった。さらに本書は「才能のあるなしは、人間完成できるかどうかとは全く無関係である。むしろ才能がある人ほど人生を誤ってしまう、名が駆せたがために、自惚れてしまう」と警告している。僕は数箇月前に友人達と話したときに最も望むものは才能だと答えていた自分を思い出す。今でも才能が欲しいと思っている自分がいる。でもそれが人間完成には無関係であること、自分が生きた証が欲しいと願うことがそもそもナンセンスなのだろうか。本書では「初めのうちは出世なんかにこだわらず自分の時間を大切に生きようと考えている若者も、いつしか同期の仲間の誰が役職につくのかと、戦々恐々とし始める。結婚すれば家を建てなければならない、人並みの・・・いや人並み以上の生活を妻子に与えてやらなければ、会社ばかりでなく家でまで肩身が狭くなる。そうやって半ば脅迫されるように成功を目指すことになるのだ。だが、これはもう本物の成功とは程遠いストーリーである。単に、所有への欲望で動いているだけだ」ととどめを刺される。そして「幸せになりたければ、目の前の人を幸せにしてみよ」「他人の喜びのために自分を使うことのできる人を成功者という」と語っている。何となく分かりかけているのにできない自分を感じている今。さっき眠りに付く時におなかが満たされ、心地良いベッドで眠れること、その今に喜びを感じると思おうとした。すると目をつぶった頭の中でチカチカと閃光が閃いたような気がする、でも本書日く頭で考えたり思おうとしてもだめだという。いくら本を読んでも自分一人で考えている限り分からないままのような気がしてならない。


10/19

清水義範「普及版 世界文学全集 第I期」を読み終える。オデッセイア・マハーバータラ・聖書・千一夜物語・デカメロン・水こ伝・ドンキホーテ・シェイクスピア傑作選・赤と黒等の物語をパロディックにした短編読み物と言ったところのもので、原作がどうであるか分からないようなものもあった。とてもこれを読んだからと言って、上記の物語を読んだ気にはなれない代物だった。


10/20

 三浦綾子の「塩狩峠」を読み始めた。


10/21

 午前5時:涙と感動を共に三浦綾子の「塩狩峠」を読み終える。圧倒的な感動が僕を揺さぶった。もう今まで読んだどの小説も色あせてしまうような気がした。僕にはここまで書けない。感動と同時に敗北を、そして僕もこのような感動を秘めた作品を書きたいという気持ちを沸き上がらせた。そして生き様を新たにしたいという願いが沸き起こった。キリスト教を毛嫌いしていた少年の気持ちがよく分かる。その少年がしだいにキリスト教の信者となり、いつ死んでも悔いのない生き方をしていく様、病弱な少女を愛する気持ち、そして最後に身を呈して暴走する客車を止めたその行動への展開にはなんの無理もなく心にしみて来るものがあった。最後の十数ページは本当に涙が止らなかった。あまりに悲しい結末、なのに、胸に突き上げてくる言い様のない感動、止めようがない涙。本来の宗教の持つ力の偉大さを感ぜずにはいられない。そしてふとオウムの持ついかがわしさ、いまだにそのいかがわしさに惑わされている多くの信者達がかわいそうに思えた。奇跡や超能力に惑わされるな、もっと自分を見つめ自分の周りの人々を大切に、愛をもてと叫びたくなる。

 さてなぜ急に三浦綾子を読み始めたかと言うと。先日鷲尾が来たときに梯さんと話したときに三浦綾子を読んだことがあるかと聞かれたこと、ぜひ読むべきであると言われたこと等が記憶にあって、書店で見つけ読む気になったのだ。オーソン・スコット・カード「死者の代弁者」を読んだときも涙が流れるほどに感動をした。彼はモルモン教徒であるらしい。とすると、宗教的色合いの強いものに感動していることになる。と言うより、より所を持っている作家の作品に感動しているのだと思う。僕の作品が誰かの感動を呼ぶためには、僕自身がより所をもって自信を持って書くことだと痛感する。いずれにしろ今「塩狩峠」に出会ったのは素晴らしい出会いだったように思う。そしてベッドにもぐりながら、誰かにこの話を話そうと思い、頭の中でストーリーを振り返ってみた。(いつも本を読むとそうしているように)でも僕の感動を伝えることはとてもできそうになかった。僕は比較的話をすることがうまいと思っていた。でもだめだ、三浦綾子が語ったようにはできそうになかった。僕が正に小説に求めていた感動が「石狩峠」にあった。正にこのような物語を書きたいのだと思う。今や40万読者がいようと村上春樹がものたらなく思えた。彼の小説は確かに読みやすく取っ付きやすいけれども、三浦綾子のような感動は与えてくれない、中身がないように思えてくる。三浦綾子の文章は、センテンスで見るかぎり、三島由紀夫や村上春樹のように共感を呼ばないし奇麗だというわけではない、全体が感動を招いている。逆に三島由紀夫や村上春樹は、部分的に共感を得られるが、ストーリーがどう言う内容だったかすぐ忘れてしまう。そういう意味ではどちらが優れているとはいえないかも知れない。できることなら美しく共感を呼ぶセンテンスを書き、全体で感動が起こさせられる物語が書きたいと欲深に思う。

 そして大江健三郎「われらの時代」を読み始めた。すると突然わけもなく12年前に別れた彼女との最後のセックスを思い出した。それは5月の連休で、彼女が浜松へ遊びに来たとき駅前のホテルでのことだった。僕は彼女と結婚することが決まったことから安心して、それまで必ず窒外射性をしていたのに、その日は彼女の中で射性したことを思い出した。そしてその後別れることになったからどうなったか分からないが、もしかしたら彼女は妊娠したかも知れない。もしかすると僕には10歳なんか月かの子供がいるかも知れない、突然そんなことを思ったのだ。もし妊娠したとしても彼女は子供を降ろしただろう、だからそんなことはありえない、でももしかしたらということもありうるような気がしたのだ。別れ話を出したのは彼女だったから、妊娠したことを僕に告げることができないまま生んでいるかも知れない。それを僕は呑気にも10数年間知らずにいると考えるとたまらない気がした。僕に子供がいるかもしれないという考えは、恐ろしい考えであると同時に、得体の知れない感動があった。阪神大震災を彼女は無事生き延びたのだろうか。それすら僕は知る手立てがないというのに。


10/27

 午前7時30分:大江健三郎「われらの時代」を読み終える。苦しい小説だった、読むのを辞めようかと思う小説だった。後書きを読むと、大江自信がこの作品のためにずいぶん消耗し、不眠症になったことが分かった。それでも彼はこの小説を愛し、書いた意義があったと語っている。「すなわち、僕自身、小説を書きながら、危機の感覚を持っていたいし、読者にも危機の感覚を喚起したいというわけだ」と言うことであり、「反・牧歌的な現実生活の研究を行なうことである」となる。確かに伝わってくる波動がある、ネガティブでダークなパワーを持って描くことによってのみ達せられる真実、僕もそのようなことを考えたことがある。でもやはり読んでみて、そのアンチテーゼによる技法よりも、ただダークな力が読者の心をむしばむことに耐えられない、そこには希望の光を見いだせない。彼が描いた姿は、現代に当てはまる所が多々ある、しかしそうだからと言って彼の描いた時代を、そんなものさと受け入れたくない。僕が書きたいものとは違うものだと思う。

 午前11時:洗濯をしながら、三浦綾子「氷点(上)」を読んでいる。152ページである、ちょうどルリ子を殺した犯人の子供をもらってきたところである。三浦綾子はなんて悲しい物語を書いたのだろうと思わずにはいられない。残酷だ。

 午後5時30分三浦綾子「氷点(上)」を読み終える。段々つらくなっていくストーリーに心を重くしながら読んで行くと。最後に主人公の啓造が青函連絡船の事故に合いきゅう死に一生を得、新たな人間になった。少し希望が沸いた。


10/30

 三浦綾子「氷点」を読み終える。悲しい物語だった。陽子の純粋さ、素直さ、気高さを感じる。と同時に、人の弱さ、悲しさ、はかなさを感じる。原罪がテーマの物語だと作者は語っていたが、作品発表当時、その言葉になじみのなかった一般大衆は、その言葉に触れ、その重さに感じこの作品が大いに読まれたのだという。三浦綾子の作品はこれで2作目だが、いずれも、表現的にはどこが優れているという感じではなかった。しかし読み終えたあとの読後感は一種独特のものがあり、感動と、得体の知れない興奮を呼び起こす。


10/31

 清水義範「世界文学全集II」を読み終える:何だか良く分からない内容だった。ちっとも面白くない。時間を無駄に過ごしたようなやるせなさがある。それにしても疲れているなと感じる。


11/13

 三度目のオーソン・スコット・カード「エンダーのゲーム」を読み終える。一挙に読んでしまった。先日読み終えた「松風の家」に比べると全く異なるシチュエーション、ストーリー展開だ。でもいずれも面白かった。とはいえ、一回目に読んだときはもっと感動したような記憶がある。


11/14

 短編の「エンダーのゲーム」を読み終える。やはり長編の醍醐味はない。「死者の代弁者」を読み始める。3回目である。


11/17

 「死者の代弁者(上)」を読み終える:なんと悲しい物語をカードは描いたのだろう。


11/18

 「死者の代弁者(下)」何度読んでも心にずっしりと来るものがある。僕もこうした癒しの感動があるものを書きたい。


12/11

 11時マイケル・クライトンの「ザロストワールド(ジュラシックパーク2)」を読み終える。さすがに前作を超えるのは難しいらしい、何となく不満足のままに読み終えた感じだ。前半のミステリータッチの進行は、ほとんど前作を読んでいるものにとっては当然の内容で、まだろっこしかった。ようやく恐竜の島に着くと息も切らせない恐竜との格闘が展開する。あっという間に読み進んでしまう、ここら辺はさすがという感じだが、読み終えてよく考えると、なぜああ言った展開になってしまったのだろうと言う感じが強く残った。それに問題はなにも解決されていない、登場人物達の大半が無事脱出できてよかったと言ったところだろうか。はたしてあの恐竜がうようよしている島はこの後どうなるのか。もとインゲンの社員達は島のことを知っているはずで、今回の登場人物達だけが知っている分けではない、ではその人達がこの後この島に付いてどんな動きをし出すだろうかなど。さらには絶滅に関するクライトン独自の見解が示されるが、どうもよくわからないまま生きてることはいいものだという台詞で終わってしまった物足りなさがあった。でももうクライトンは続編は書かないといっている。


12/26

 グインサーガ(49巻)「緋の陥せい」を読んでいる。



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