2024/12/13
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プロローグ:無限の扉
喫茶店「1.9Lの魔法びん」。そこには誰に話しかけるでもなく、ただ存在している無口な男と、時折ふらりと現れる「怪人案単多裸亜」がいた。人々の日常は何事もないように進んでいるはずなのに、誰もが気づかぬ「無限」の裂け目が、静かにこの世界を漂っていた。
第一編:「視点の切り替え」:彩音(あやね)
喫茶店「1.9Lの魔法びん」は、昼下がりの静けさに包まれていた。壁掛け時計の針が、カチカチと音を立てながら進んでいる。カウンターの一番端、誰も座らない隅の席に、いつものように無口な男が座っている。湯気が立つカップに視線を落とし、ひたすら静かに過ごしていた。窓際には、アルバイトの彩音が座り、ぼんやりと外を眺めている。通り過ぎる人々の姿がガラス越しに揺らめき、なんとなく夢の中の光景のようにも見えた。「なんだろう……。」彩音が小さな声で呟いた瞬間、扉が風鈴の音と共に開いた。現れたのは、コートの裾が擦り切れた男――怪人案単多裸亜(かいじんあんたんたらあ)。「あれ?今日も来たんですか?」店のマスターが声をかけると、案単多裸亜はふらりと彩音の隣に座った。そして、ポケットの中から、ひしゃげたスプーンを取り出す。「ねえ、君、これ見て。」唐突にスプーンを差し出され、彩音は戸惑いながら受け取った。ひどく歪んでいて、表面には微かに自分の顔が映っている。「曲がってる……。」「そう、曲がってる。でもね、映る顔は変わらない。面白いよねえ。」案単多裸亜は笑いながら続けた。「スプーンが曲がると、世界も少し曲がって見える。でも、その曲がった世界、いつもと違って綺麗じゃないかい?」彩音はもう一度スプーンを覗き込む。そこには彼女の顔だけでなく、背後に並んだカップや照明、そして窓越しの街が不思議に歪んで映り込んでいる。「なんか、違って見える……。」「ほら、視点が変わったんだよ。」その言葉を残し、案単多裸亜は席を立つと、マスターに手を振って出ていった。その日、彩音は帰り道でふと試しに、いつもの通りを逆方向に歩いてみた。見慣れたはずの街の風景が、妙に新鮮に映る。「あれ?こんな小さな花壇、前からあったっけ?」足元の石畳には、ひっそりと小さな花が咲いていた。「いつも見ていたのに、気づかなかった……。」彩音は足を止め、その花をじっと見つめた。それは、彼女にとって初めて「無限の気配」に触れた瞬間だった。
第二編:「歪んだコイン」:蒼真(そうま)
蒼真は喫茶店の常連であり、いつも一番窓際の席に座っている。今日も数学のノートを開き、ペンを動かしていた。「無限ってのはさ、終わりがないってことだろ?」律人(りつと)が呆れたように隣で言うが、蒼真は聞いていない。彼の指先には、何度も裏返されてきた一枚のコインがあった。「表か裏か、どっちかに決まるはずなんだ。」コインを弾き、机の上に転がす。それはなぜか、立ち止まってしまう。表でも裏でもない――まるで、そこに答えがないかのように。「コインが止まるってどういうこと?」律人が笑いながらコーヒーを啜ると、不意に店の扉が開いた。怪人案単多裸亜がふらりと入ってきて、蒼真の前で立ち止まった。「それ、面白いねえ。コインがどっちでもないなんて。」「……知ってるんですか?」蒼真が聞く。案単多裸亜はカウンターで一杯の紅茶を注文し、続けた。「無限ってさ、君が見ているものの向こう側にあるんだよ。どっちかに決めないから、永遠に転がる。」蒼真はコインを握りしめ、外の景色を見つめた。夕日が広がり、空の色は無限に溶けていくかのように見えた。「どっちでもないものを、ずっと探し続ける――それもまた、無限なんだな。」
第三編:「止まった波紋」:花乃(はなの)
カウンターに座る花乃は、毎日のアルバイトの合間にいつも水面を見ている。喫茶店の飾り棚に置かれた小さなガラスの器。その中には静かな水が張られ、ひとしずくの水滴が落ちるたびに波紋が広がる。「あの波紋、いつ止まるんだろう。」無口な男が突然、隣で言った。驚いた花乃は笑って言い返す。「止まるわけないですよ。広がって、消えて、終わり。」だが無口な男は、その器をじっと見つめていた。「そうか?お前の目には、消えて見えるだけだ。」花乃はふと視点を変え、器を覗き込む。そこには波紋が一瞬広がった後、無限のように重なり続ける光の揺らぎがあった。「……終わってない?」彼女は思わず呟いた。案単多裸亜が店に入ってきて、器を指で軽く叩いた。「ほら、見えるかい?波紋は広がって、何もかも揺らしているんだよ。」花乃はその日、初めて何かを感じた。終わったように見えても、何かはずっと続いている――それが無限の波紋なのかもしれない。
第四編:「無限の足音」:無口な男
喫茶店の常連たちは、誰も彼を「無口な男」としか呼ばない。だが彼には名前があり、心にずっと消えない「音」があった。ある日、彼は店のテーブルに小さな時計を置いた。秒針がゆっくりと進み、微かな音を立てている。「何の音だ?」律人が聞く。無口な男はゆっくりと顔を上げ、口を開いた。「無限の足音だ。」その一言に、店内が静まり返る。「時間は終わらない。ただ、聞こえる奴にだけ聞こえる足音だ。」案単多裸亜がその会話に加わり、笑った。「そうだねえ。無限は、いつも静かにそこにある。」時計の針がカチカチと進むたび、店内の常連たちは初めて「無限の音」を聞いたような気がした。無口な男は、ふと1.9Lの魔法びんに注がれた湯気を見つめた。そこにも、消えゆく一瞬の無限があった。
エピローグ:新しい無限
閉店後、マスターはカウンターに座り、1.9Lの魔法びんを磨いていた。湯気が立つ魔法びんは、いつまでも温かさを保ち、冷めない。「この魔法びん、まるで無限だな。」マスターの独り言に、案単多裸亜が頷いた。「そう、何かを保ち続けるもの――それは、きっとどこまでも続く。」その言葉を最後に、彼は店を後にした。窓から覗く夜の街。誰もが知らない無限の気配は、いつも静かに、そこに存在し続けている。
「無限の気配」完
あとがき
これは「これまで知られていなかった全く新しいタイプの無限が発見された。」というニュースを見て思いついた小編集。視点を変えることで見えてくる「新しい無限」を、日常の些細な瞬間から描き出そうとした。それぞれの登場人物が、無限の気配に触れ、それぞれの形で「気づき」を得る――その断片が重なることで、全体として「新しい無限」を紡ぎ出す物語。
とてもいいですね。無駄な言葉はなくて、引き込まれました。