2024/12/6

1.9Lの魔法びん
黄昏の光が射し込む街角の喫茶店「1.9Lの魔法びん」。その名の通り、店内には壁一面に大小さまざまな古い魔法瓶が飾られていた。どれも使い込まれた様子で、時間の層がその表面に刻み込まれている。常連客たちはこの店の名前についてあまり気にしていないようだったが、主人公の「僕」にとって、この名前はひそかな懐かしさを呼び起こすものだった。
数年前、仕事に疲弊していた頃、僕も魔法瓶を持っていた。まさしく1.9lだった。その中には、いつも冷めたコーヒーが入っていた。それは、何をしても満たされない日々の象徴であり、同時に生き延びるための小さな支えでもあった。
ある日、「僕」はその店で、奇妙な出来事に出会う。店内は夕方の静寂に包まれていた。常連たちのさざめきとコーヒーカップが触れ合う微かな音だけが響く。「僕」はいつもの席、窓際の隅でぼんやりと座っていた。窓越しに見える風景はどこか現実感を欠いていて、日々の倦怠感と混ざり合い、意識が白昼夢のように漂う。「よう、学生さん、いや、違うか。今日はいい話があるよ。」唐突な声が聞こえた。顔を上げると、向かいの席には、羊のような顔をした男が座っていた。彼の顔には奇妙な角が生え、しっぽが椅子から垂れている。どうみても悪魔だ。「1.9リットルの魔法瓶に入れられた冷めたコーヒー、まだ覚えてるかい?」男の声は穏やかで、どこか人懐っこい響きがあった。「僕」は答えずにコーヒーに口をつけた。その瞬間、喫茶店の風景が一瞬だけ揺らぎ、視界が濃密な闇に包まれた。
悪魔の提案
「山に行ってみるといい。」悪魔は微笑みながら続けた。「お前の高校時代の『国際野糞協会』、覚えているだろう? 無軌道な若さと、果てしない可能性の匂いが漂っていた。今の君が失ったものだ。」その言葉は皮肉ではなく、真剣だった。言われてみれば、「僕」はずっと山に行くことを避けてきた。時間がない、体力がない、そんな言い訳を積み重ねて。悪魔はテーブルに指を滑らせながら言った。「山へ行き、冷たい風を吸い込んでみろ。昔の記憶を探しに行くんじゃない、未来のために行くんだ。」「何が見つかる?」「それは自分で決めることだ。」
山への旅
悪魔との出会いの後、なぜだかわからないが、「僕」は山への旅に出る決意をした。リュックの中には、かつての1.9リットルの魔法瓶。使われていなかったその魔法瓶は、埃を拭き取られ、再びコーヒーを注がれた。山頂で「僕」は魔法瓶からコーヒーを注いだ。その香りは、以前とは違う新鮮さを感じさせた。振り返ると、背後に悪魔の姿がちらりと見えた気がしたが、誰もいない。ただ、風が冷たく吹き抜けるだけだった。
エピローグ
喫茶店「1.9Lの魔法びん」に戻った時、いつもの静けさがあった。しかし、「僕」はその場所が少しだけ違って見えた。悪魔の姿はもうない。だが、あの時の言葉が胸の奥で響いている。「悪魔とは何だったのか?」振り返れば、それはただの自分自身の内なる声だったのかもしれない。それとも、本当に悪魔が囁いたのか。どちらでもいい。ただ、「僕」はもう一度空を見上げ、未来を考えることができるようになったのだから。
「国際野糞協会」完
あとがき
「国際野糞協会」について
International Field sit Association略してI.F.S.A.日本語で「国際野糞協会」である。高校時代に非公式に作られた倶楽部である。会員は友人3名。僕はその名前を愛していた。当時の我々にとってその名前は神聖なものであり、正に自分達の気持ちを言い表した名前であった。オリジナルロゴを作ってそこには必ずI.F.S.A.と書き込んで愛用していた。活動と言えば、高校の裏山に登り峠を越えて、JR(当時は国鉄だった)の一駅分を山の中を散策しながら帰ることぐらいで、実際に野糞もしたことはなかった。3人でジャン・ジャック・ルソ−の「自然に帰れ」を合言葉に大真面目に会則を作り、会員証を作り、この世の不思議を、自分の存在とは何かを、女の子を会員に入れるべきかを語り合った。
Comments