すれ違いの温度 第3話
- Napple
- 5月6日
- 読了時間: 2分
2025/5/6

「魔法びんの記憶」
うちの店は、騒がしいのが苦手な人間が、そっと立ち寄る場所だ。誰かと来ても、しゃべりすぎずに済む。ひとりで来ても、寂しすぎずに済む。そういう空気を作るのが、俺の仕事だと思っている。それが「1.9Lの魔法びん」だ。
彼らが初めてこの店に来たのは、もう何年も前のことだ。彼はよく喋る男ではなかったが、何かを伝えようとしているのはすぐに分かった。目の奥が、忙しなく動く。何かを考えて、ためて、でもうまく言葉にできずに黙る――そんな男だった。
彼女はといえば、もっと静かだった。彼が話すのを、待っているようでもあり、聞いているようでもあり、少しだけ遠くを見ているようでもあった。
ふたりでこの店に来るとき、決まって彼が珈琲を頼み、彼女は紅茶を頼んだ。そのときの彼女は、ふと目を伏せながら、「レモンをお願いします」と言った。言葉にはしないが、どこかで、彼女はこの関係に気を張っていたんだと思う。彼に合わせすぎず、でも離れすぎないように――そういう距離感があった。
ある日、彼がカバンから小さな文庫本を取り出して、そっと彼女の前に置いた。彼女はしばらく何も言わなかった。紅茶の湯気の向こうで、ページを開くでもなく、本を見つめていた。
そのあと、彼女がふと微笑んで、「これ、重たいのね」とだけ言った。それきりふたりは、いつものように、ほとんど言葉を交わさずに店を出ていった。
その後、彼だけが来るようになった。彼は以前と変わらず、コーヒーを頼み、長く座って、何も書かず、何も読まずに、ただ時間を過ごしていった。
ある日、ふと思い出したように俺に聞いた。「マスター、レモンティー、ひとつお願いできますか」――それは、彼女が頼んでいた飲み物だった。
俺は何も言わず、ただ出した。彼は湯気の立つティーカップを前にして、少しだけ目を細めた。まるでそこに、彼女がまだ座っているかのように。
彼の手紙のことも、彼女の沈黙のことも、俺には分からない。けれど、ふたりの間に確かにあったもの――言葉にならなかったものたちが、この店の空気に、いまも少し残っている気がする。
「魔法びん」というのはね、温かさを、しばらく閉じ込めておく道具だ。すぐに冷めてしまうものも、少しのあいだ、守っておける。
そういう意味では、俺の店は、大きな魔法びんみたいなものかもしれない。
どこかに置いてきた気持ちを、誰かが静かに思い出せるように。過ぎてしまったことにも、温度があったと、思い出せるように。それでいいんだと、俺は思っている。
すれ違いの温度 第3話「魔法びんの記憶」(了)
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