2023/2/16
夏目漱石との出会いは「吾輩は猫である」だったか「坊ちゃん」だったか・・・。
私が出会った夏目漱石の作品。
1905年 吾輩は猫である
1910年 門
1914年 こころ
1915年 硝子戸の中
Appleブックにある本
1896年 人生
1905年 吾輩ハ猫デアル
1906年 草枕
1906年 坊ちゃん
1907年 虞美人草
1908年 三四郎
1908年 夢十夜
1909年 それから
1910年 門
1914年 こゝろ
1915年 道草
日記に綴られた夏目漱石にまつわる思い。
1999年6月15日(火)
生きていく上でのこと
感謝 この一つのことにつきるかもしれない
昨日の夕方 大橋社長から電話があり「今日は早く上がるように」と言われた。なんだか訳の分からない状況でいい気分ではなかった。そして今朝電話がまたあり、ワシントンホテルの3階ラウンジで待つよう指示があった。いずれも理由がわからないのでいい感じはしなかったが大橋社長の声は暖かかった。そしてワシントンホテルでその理由がわかった。昨日小沢社長と山形に出かけた大橋社長は、小沢さんから僕が小沢さんに世話になりながら不義理を働いていたことを聞かされ、本社に小沢さんが来ることになったので中村と顔を会わさない方がいいだろうと気を使ってくれたのだった。今日一日小沢さんがいる可能性があるので、僕は新宿をぶらついて一日を過ごした。それは少し気を使いすぎかもしれないことだったが、大橋さんは気を使ってくれたのだった。そして、青沼さんのことを少し話し、感謝のできる人間になるよう、42歳は長いトンネルをぬけこれからいままでに体験したことのない素晴らしい人生が待っている可能性を聞かされた。とにかく大橋さんには無条件に感謝だった。
新宿中央公園を抜けて都庁に向かった。公園には沢山段ボールをひいて寝ているおじさんたちがいた。天気も良くすでに暑い一日が始まろうとしていたが、木陰は風が通り快適そうだった。都庁はきれいで立派だ。紀さんは税金の無駄遣いという。2階の展示室で東京都の歴史をマルチディスプレーが物語っていた。一種のプレゼンテーションだ。最近こういうものに敏感だ。内容もさることながら構成や進行タイミング、表現方法など参考にする。やはり動画とナレーションは効果的だ。45階の展望室へ行った。夏目漱石の東京の感想に「東京は変わった・・・何より驚いたのはどこまで行っても町がなくならないことだ・・・」と言ったという。確かに、地上202mから眺める景色は、どこまで言っても町で雑然とした景色だった。そんな中にこんもりと広がる新宿御苑と明治神宮の森はほっとする眺めだった。日本のいちばんにぎやかで高層ビルの立ち並ぶところ新宿。でもこうして都庁の展望窓から眺めると、高層ビル群はすぐ終わってしまう。マンハッタンの景色はどんなだろう。展望室には外国人が一杯で、写真を撮っている。外人というのは独特のにおいがある。一昨日乗った小田急にいた黒人は、がらむのにおいがしたし、今日エレベーターで一緒だった白人はやっぱり異国のにおいがした。
1999年8月15日(日)
最近何冊かの本を読んだ。「スターウオーズのハン・ソロ3部作」これはハンの幼い頃から始まって丁度エピソード4「新たなる希望」が始まるタトウイーンのモスアイズリー宙港でハン達がルークと出会うとこまでを描いたものだった。ここではチューバッカとの出会いやランド・カルリジアンとので合い、ミレミアム・ファルコンを手に入れる下り。ジャバ・ザ・ハットとの出会い、ボバ・フェットとの出会いなど、スターウオーズファンなら誰でも驚喜しそうな物語が詰まっていた。楽しい物語だった。
続いて読んだのは「エデミオン」かの「ハイペリオン」2部作の続編だ。少女と青年の宇宙を股に掛ける冒険物語。ハイペリオンに比べて随分軽いタッチの冒険物語は気楽に楽しませてくれた。
この3冊とスターウオーズのエピソード1のシナリオ。そしてエピソード1のコミックあわせて丁度1万円ほどだったろうか。今の僕は財力的に余裕はないのだが、半年前よりは先が見えてきたし、先々月は30万稼いだあとだったので、久しぶりに大枚をはたいて買ったわけだ。今思うと半年間は図書館通いだったのだから、随分な進歩だ。図書館では新刊は手に入りにくいし、丁度今読みたい本はなかなかお目にかかれない。それにお目当ての本は貸し出し中という事がしばしばだったから、やはり本屋で買ってきて読めるというのはいいことだ。でもこの数冊は感動するような内容ではなかった。その後3冊ほど仕事に必要な参考書を買った。ビジュアルベーシックの本1冊とホームページに関する本を2冊。
そして一昨日久しぶりに感動を求めて、数々の賞を受賞したと書かれていた「キリンヤガ」を買い求めて読み始めた。本屋で何度か目にして読みたいと目を付けていた本だった。そして今日読み終えたわけだが・・・。ヒューゴー賞・ローカス賞・星雲賞など数々の賞を取りあまたのSFあるなかでこれほど賞を独占した本はないと言うふれこみの本。さらには帯にかのオーソン・スコット・カードが絶賛している。ところが読み終えても感動はなかった。僕は感動の薄い人間になってしまったのだろうか。
僕の価値観が変わったことは事実だ。貫いて生きようとしたけれども、できなかった。どこかに何か違うと感じさせるものがあった。とにかくやり続ければいいのだと突き進んで行ったけれど、行けば行くほどに、「嫌だ!」「こんなのは嫌だ!」と全身が訴えてきた。そして僕は普通の生活に戻った。
漱石は誰でも知っている。だから何か読んでおこうと手に取ったのは「吾輩は猫である」だっか「坊ちゃん」だったか。そして読み終えることはなかった。テレビで幾度も「吾輩は猫である」や「坊ちゃん」がドラマ化され、見ようとするのだが、最後まで見た記憶がない。どうしてだろう。文章が読みづらかったのか、内容に興味が持てなかったのか。長い間夏目漱石コンプレックスを感じていた。
ある日なにげなく、本当に不思議なのだが、漱石の「門」を手に取り読み始めた。そして読み終えた。心にどんよりとした澱のようなものが溜まった。不思議なことに今度は「こころ」を手に取り読み終えた。またしても変なものが溜まった。そこには人の妻を横取り、その罪ゆえにひっそりと暮らす男が描かれていた。それと前後して高等遊民という言葉を知る。それは仕事もせずに自堕落に暮らす人を差し、自分がそうなのではないかと強く思うようになった。
「門」を読むからには「三四郎」「それから」を、「こゝろ」を読むなら「彼岸過迄」「行人」を読むべきなのだろうが。どうにも手をつけられぬまま時を過ごしている。
夏目漱石の本をほとんど読んでいないくせに、彼をどこか身近に感じる。彼の言葉や、彼の行動の断片を見聞きして、記憶に残し、何かの拍子に思い出したりする。
1999年の日記は漱石の本を読んでどうのということではなく、彼がいった言葉をふと思い出したというだけのことだが、その前後に書かれている記録は、私の人生において、かなり大きな出来事の過程を書き残していた。
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