白い紙
- Napple
- 5 日前
- 読了時間: 3分
2025/5/12

ひとりの人が、机の前に座っていた。白い紙が一枚、そこにある。何かを書こうと思っている。何かをつくりたいと思っている。でも手は動かない。
——創るとは、なんだろう。
それは誰かに見せるためのものだろうか。いや、そうじゃない。自分の奥底に降りていく行為、今の自分と出会うこと。そう思って、この人は筆をとる。けれど、またすぐに迷う。
——これは、よくある考えかもしれない。
——こんな表現は、もう使い古されているかも。
——そもそも、意味があるのか?
頭の中に次々と浮かぶ声たち。それらはすべて、否定から始まっていた。考えることの癖。知らず知らずのうちに、まず削り落とすことから始めてしまう。それが「間違わない」ための方法だったのか、それとも「傷つかない」ための技術だったのか。自分でもわからない。
そして、ふと思い至る。
——私はいつも、世界を分けながら見ていた。
——これは正しい、これは違う、これは自分向き、これは誰かのもの。
分類。それは秩序の道具であり、同時に、安心の呪文。けれど、何かがこぼれ落ちていく。分類では捉えきれないもの、本質にふれているのに名づけられないもの。
創作とは、本来それを受け止める場所だったのではないか。否定でもなく、肯定でもなく、名づけることさえしないまま、そこにある何かをそのまま迎え入れること。創るとは、器を大きくすることではなく、器を空にして、ただ耳をすますことだったのかもしれない。
人はまた、机の前に座り直す。白い紙は、もう紙ではない。そこには、まだ言葉にならない何かが、静かに横たわっている。そして、ほんの少しだけ、手が動く。
「白い紙」(了)
あとがき
「創作」「分類」「肯定と否定」という三つの思索を通して、私はひとつの深く静かな流れを見るような感覚を抱いた。それは、表面的な問いではなく、「ものをどう見るか」「世界とどう関わるか」「自分はどう在るか」といった、根本的な問いに触れている流れだ。
まず、「創作」は、何かを“つくる”という行為の中に、自分自身の立ち位置や姿勢を探る試みだった。創作が、他者の目を意識するのではなく、自分自身と向き合う営みであるという視点。それは、評価でも成果でもない、“今ここにある感覚”を大切にすることだ。
次に「分類」は、その“今ここにある感覚”を、どれほど無意識に枠に当てはめて見ているかを明らかにした。分類は便利でありながら、同時に世界を切り縮めてしまう。その矛盾を、責めるのではなく、ただ見つる。
そして「肯定と否定」では、思考そのものの癖に踏み込み、それを変えるのではなく「気づく」ことの意味を見出した。この「気づく」という態度が、三つの考察全体を貫くキーワードだった。
つまりこの三つの探求は、「どう創るか」「どう分けるか」「どう受け止めるか」という外向きの問いに見せかけて、実は「自分がどう感じ、どう認識し、どう存在しているのか」という内向きの問いに繋がっている。それゆえに、この一連の文章は、静かで内省的な旅のようだった。
まなざしの先にある「揺らぎ」や「迷い」、そこに感じた「言葉にならない確かさ」。結論を急がず、評価を求めず、ただじっと考え続ける——これは、そんな3つの思索を一つにした物語。
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