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執筆者の写真napple

描きたいという衝動

更新日:2023年3月21日

2023/1/1


 何かを描きたいという衝動がある。この気持ちは何だろう。


 ここで言う描くとは創作ではなく、単に手を動かすと言う原始的な行為で、どこか本能的なものだ。描きたい物がはっきりしなくても、とにかく何かを描きたいという気持ちが先走る。描くと言う行為に没頭したいと言う欲求。描いてさえいれば幸せな気持ちになれるという得体の知れない思い。腕が痛くなっても頭が痛くなっても描き続けてしまう。苦痛を伴っても楽しいと言う不思議な現象。描きたいと言う衝動を説明するとこんな感じだ。


 描いている時は、視野が狭くなり全体が見えなくなることが多い。何でこんな事してるんだろうと思ったりする、そのうち意識があやふやになり無心の時が流れ、いつしか満ち足りた気持ちが訪れる。満ち足りた気分を得てしまうと、それ以上描く気が起こらない。これはこれでいい。そうだ次を描こう。こうして次々と描いていく。


 描きたいと言う欲求は、ある日突然湧き上がり、しばらくの間続いて、フット途切れる。そんなことが周期的に起こる。得体の知れない快楽を伴った生理現象のようだ。それは満たされたいという欲求につながっている。


 満たされたいと言うのは、満たされていない様だが、必ずしもそうではない。満たされていようがいまいが、満たされる感覚を味わいたいらしい。だから、もし満たされているならば、さらに満たすためには空間を広げなければならない。広げる事ができなければ、既にある物を捨てる事になる。描くと言うのは内なる物を広げたり吐き出すことなのかもしれない。


 うーむ、さてさて、描くことが空間を作るための作業だとすれば、広がった空間を何が満たすのだろう。ああ、それは、描いていた時間かもしれない。そうか、描いている時に思ったことや、感じたことが良いことも悪いことも、喜びや苦しみもひっくるめて空間を満たすのだ。


 だから私にとって描くと言う行為は、どんな時間を過ごし、何を考え、何を感じたか。そういった諸々の積み重なりを定着させる行為なのだ。描いたものを眺めると、不思議なくらい描いた時の工程とか気持ちが思い出されるのは、大切な何かを記録していたのだ。でも第三者の知るところではない。


 大袈裟な言い方をすると、生き様を総括している気がする。総括とは、取り組んできたことの成果を評価し反省し、バラバラになっている物をまとめる事だ。それは過去を振り返る事であり、これまでを洗い流す事にもつながる。描き切るとスッキリして、満ち足りた気持ちになるのは、こうして内なるものを整理したからに違いない。周期的に湧き上がる描きたいと言う衝動はこうしたカラクリによるのだろう。そしてこれが私の流儀なのだ。



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