top of page

072 浜松富山縦断

1990年5月2日水曜日

ミニで富山まで日本縦断を試みる、何かをしないではいられない心のもやもやと、創作意欲の一かけらと、出会いの期待をいだきながら。そしていつものごとく、山々の美しさを喜ぶ以上に、一緒に喜ぶ人がいればよいのにとうち沈み、絵を書きながらも、満たされない思いが覆い、腰を落ち着けることなくそそくさと記録を付けるかのような絵を描き、誰かに見せるというあの楽しみに似た思いも無く時を過ごしてしまった。

出がけの喫茶店で読んだ本に「イワンのバカ」の話が載っていた「2人の兄はそれぞれ名を成しよい暮らしをしていたが、イワンは特にこれと言った才能もなくひっそりと畑を耕し両親と妹の面倒を見ていた。そこへ悪魔がやってきて兄達からすべてを取り上げてしまった。兄達はうちひしがれイワンの元へ身を寄せて暮らした。ところが悪魔はイワンから何も奪うことができなかった。そしてイワンの所にこそすべてがあった。」というお話し。欲しいものがたくさんある、こつこつと働くことを疎ましく思う、才能が欲しいと思い当てのないさすらいの中へ旅立ってしまう、イワンのように暮らせない。手に入れたものを失って失意の底に沈んだりしながら暮らすのだろう、なんかおかしいな。

旅の途中も美しさ、気持ちよさを感じながらほかのことを考えている自分がいた、雑念のようなものがずっと付きまとい、今ではなく次のことを考えてしまっている自分がいた。今を感じることができなければいつまでも満たされないまま、不確かな思いに引きずり込まれ苛立ちが居座ってしまう。

途中実家に立ち寄り「ベルサイユのバラ」を見た。信じるもののために戦うという一言が心に残った。誰かと争ったりなどしたくはない、なのに信じるもののために戦うという言葉のなんと響きのよいこと。人は戦うときこそ何かを得るかのようだ・・・、さて、とりあえず戦わないまでも今の僕に信じるものがあるだろうか・・・。

浜松へ帰る間ビュンビユン飛ばす車の中で一人のんびりと走った。夜遅くの国道は車もまばらでトロトロ走っても迷惑にはならないだろう。皆アッという間に追い抜いていく、僕は静かな優しいとまで思える気持ちで一人走った。この場合の優しいとは心の和んだ状態ではなく戦闘意欲のない状態だった。

しばらく夜の闇の中を一人走るうちに不思議な安堵感がやって来た。信じるものが何かを求めて旅に出たところで何も変わりはしないのだ、今の自分の周りのことをもっとよく感じなけりゃ、今の仕事、友人達、一つ一つのことをもっと見て感じて、その時その時、今を大事にしなくちゃいけない。そう思いながら落ち着いた気持ちで走った。

 

「思いのままは、暮らすこと。思いのほかは、生きること。」

 

暮らすことは何とかなってしまう、生きるとなるとそうは行かなくなる。どういうことだろう。ともかく生きるとはその時その時を見つめるということなんだろうな。僕はよく今から目をそらしているのだろう。いわれのない疎外感は自分が目をそらしているからなんだと感じる。つい次のことを考えて用意をしてしまうその結果今がなくなっちゃう。いつもそうしていたら本当に今なんて無くっていつまでたっても次のための準備に終われてしまう。のんびりそうに見える僕が実はいつも先走っているなんて変な感じだ。

bottom of page